チャナカッレのテヴフィキイェ村のはずれにあるトルヴァ(トロイア)古代遺跡から、ドイツ人考古学者シュリーマンが発掘して国外に持ち出した財宝の謎が解明された。
オスマン帝国時代に、イゼッティン・エフェンディという人物が行った調査の後、ダーヒリイェ・ネザレッティン(内務省)によって記録された史料により、シュリーマンがトロイア王プリアモスに関係した物であると語っていた財宝を、アテネにいつ、何回に分けて、誰の手助けで、如何に持ち出したのかという謎が明らかになった。チャナッカレのオンセキズ・マルト大学(ÇOMÜ)文理学部考古学科の教員であり、トロイア発掘委員会副委員長でもあるリュステム・アスラン准教授と、同大学歴史学科のアリー・ソンメズ講師は、考古学者シュリーマンに関する国際的な考古学研究の論文の準備作業を二年前から開始した。二人の教員は、シュリーマンが「プリアモスの財宝」であると主張した財宝を持ち出したことに関して、複数の公文書館であらゆる史料を調べた。オスマン文書館の中から見つけられたある史料により、財宝の持ち出しについて、これまでほとんど分かっていなかったことが明らかとなった。トロイアの財宝がドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンによって1873年にギリシャのアテネに持ち出された後、この事件に関する調査をオスマン帝国が行っていたことを示す史料が見つかったのだ。内務省によって1874年7月24日付けのオスマン語で書かれた文書は、事件に関する秘密のベールを白日の下にさらした。
■ シュリーマンは財宝を三度にわたって持ち出した
ソンメズ講師は、オスマン文書館で発見した史料が、シュリーマンの財宝の持ち出しについて、オスマン帝国が行った調査の詳細について情報を伝えてくれると話す。ソンメズ講師は以下のように述べた。
「オスマン帝国は、シュリーマンが財宝をアテネに持ち出した後、すぐに調査を始めたようです。イゼッティン・エフェンディという人物がこの調査を担当していたことが(史料から)うかがえます。調査後に内務省が作成した報告書によれば、シュリーマンは『政府に任命されたエミン・エフェンディという人物が(トルヴァの)役人だった時に、発掘された品々を1873年4月上旬と同年5月下旬の二度に分けて、クムカレ村にあるカランルクという港から、木材積み出しのためにやってきたギリシャ人船長アンドレアの船に乗せて運んだ。三度目は軽くてふところなどに忍ばせることのできる金製品を、金庫の中にあるいはシュリーマン自身や彼の仲間達のポケットに入れて、クムカレ港から、アブドゥッラー・船長のボートでカレイ・スルターニエ(チャナッカレの古称)の税関を通ってアテネに運んだ』とあります。この証言は、シュリーマンがトロイアで発掘した財宝を一度にではなく、三度にわたって運んだことを示しています」と話した。
■ 財宝は50,000フラン
ソンメズ講師は、シュリーマンが財宝を国外に運んだ後、オスマン帝国は財宝を追跡したが、取り戻すことに失敗したことを述べた。ソンメズ講師は次のように続けた。
「オスマン帝国は、財宝に関しギリシャ政府に問い合わせをしました。当時イスタンブル考古学博物館の責任者だったデシエル(ドイツの歴史学者・考古学者。現在のイスタンブル考古学博物館の基礎を築いた人物)がこの問題を担当することになりました。弁護士も任命されました。ギリシャでの第一審は3月に始まり、オスマン政府に不利な判決が下されました。その後オスマン政府は控訴しました。高等裁判所にあげられ、その結果第一審判決は破棄されました。その直後にシュリーマンの家に(財宝の)差し押さえが入りました。しかし、(シュリーマンは)ギリシャ政府から状況を事前に知らされており、財宝を家から運びだしたと推測されます。その後オスマン政府は9ヶ月もかかった裁判ののち、この件を示談にて終わらせねばならなくなりました。シュリーマンはオスマン政府に5万フラン支払い、訴訟が取り下げられたそうです。ただオスマン政府は当初100万フラン以上を要求したそうです。しかし、当時の状況ではこの金額を手に入れることは不可能だったため、結局5万フランで妥協せざるを得なかったようです」
■ この史料はトロイアの財宝の謎を解く
一方、アスラン准教授は、この史料は、財宝がいつ、何処から、何回、誰によって、どうやって持ち出されたのかについて明らかにし、また財宝が持ち出された直後に、問題を明らかにさせるために取ったオスマン政府の強い姿勢を説明してくれるので、この二つの点で重要なものとなっていると明らかにした。トロイアの財宝が持ち出されたことに関し、アスラン准教授は、多くのことが専門家によって現在も議論されていることを指摘し、この史料は、トロイアの財宝がひとまとまりの素晴らしい財宝であり、財宝の一部はトロイアで見つかったものではないというような主張を論破してくれたと語った。アスラン准教授は以下のように述べた。
「現在までに、シュリーマンが5月31日にトロイアで重要な財宝を発掘したこと、この財宝をジャルヴェルト農場に運び、その後アテネに持ち出したこと、また彼の妻であるソフィア・シュリーマンが、財宝が見つかった時に、言われているようにトロイアにはいなかったことを我々は知っていました。それから今までかなりの年月が経っているにもかかわらず、財宝の一部が本当にトロイアで見つかったのかそうでないのかについて、未だに疑いがもたれていました。ある主張によれば、発掘された財宝はひとまとまりの大きなもので、5月31日に発見され持ち出されたそうです。また他の主張によれば、見つかった財宝は細々としたものであり、シュリーマンがセンセーショナルな話題にするために、大きな財宝がみつかったと喧伝したのだそうです。見て下さい、この史料はシュリーマンがトロイアで1873年の4月、5月、6月の3ヶ月間に幾つかの小さな財宝を見つけ、それらを3回に分けて持ち出したこと、そして財宝がひとまとまりの大きな財宝ではなかったことを明らかにしています。また同様に財宝の全てがトロイアで発掘されたものであるとも書かれています。これはトロイアの財宝の謎を解き明かすものです」
アスラン准教授は、明確な答を与えてくれるこの史料を用いて、彼らが準備作業を進めている(従来よりも)多くの情報を盛り込んだ考古学論文を国際的に発表するため、ドイツ語とトルコ語で出版して世界中の人に伝えるつもりであることを付け加えた。一人の考古学者として、財宝は発掘された場所で展示されるべきだとするアスラン准教授は、入札の段階に達したトロイア博物館(訳者註:トロイア博物館建設計画が現在進行中で、2011年1月に建設の入札が行われた)が、財宝を取り戻すという夢を後押ししてくれていると付け加えた。
(本記事は
Asahi中東マガジンでも紹介されています。)
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( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:23837 )