新刊書、『非ムスリムのトルコ軍兵士』
2011年09月11日付 Milliyet 紙

この数週間トルコで話題となっていることのひとつは、少数民族の財産の返還である。

上記の問題は、それひとつでとどまる問題ではない。ことの本質は、非ムスリムがトルコで出くわしたあらゆる問題も内包しているということである。このうち最も触れられていないこと、それは兵役中に起こったことである。研究者のルファト・N・バリ氏は、最近出版した本でごくわずかにしか語られないこの問題を取り上げた。『非ムスリムのトルコ軍兵士』という本は、証言を伴って非ムスリムがトルコ軍の中で何を経験したのかを著したものである。時々ポジティブ、ほとんどがネガティブな差別の歴史が、実はこれである。ヘンリと言う名の一般兵卒に向けられた「あなたはアメリカ人ですか?」という問いがもつよそよそしさから、あらゆる非ムスリムの祖国への献身について根拠のない不安にいたる歴史が、この問題を示しているのである。食卓で、家庭で頻繁に語られる「非ムスリムが軍で何を経験したか」という疑問のあらゆる答えは、リブラ出版から出た『非ムスリムのトルコ軍兵士』にある。

―「非ムスリムのトルコ軍兵士」というテーマはどのように浮かんだのですか?

自分独自のテーマを見つけようとしました。いままで実施されず、考察されたこともない問題です。非ムスリムの兵役について1941-42年の労働部隊について以前書きました。これは、一党独裁制の時代でした。(ですからこの本で)私は基本的に1950年後半を書きたかったのです。非ムスリム社会の中では一般的な考え方はこうです、「我々を士官にしなかった、総じてしなかった。軍でこのようなひどい扱いを受けた、そうなのだ」私はことの真実は何かと思い、知ろうとしました。

―それらの情報をどこで見つけたのですか?

インターネットで大衆に呼びかけました。80余りの答えがきました。もちろんみな同じことを経験したとは言えません。この本で示した人たちよりも良い記憶、悪い記憶もあります。しかしこういうことを公にしたのは初めてなのです。トルコでタブーとしてみなされる何百もの問題のうちのひとつを明らかにしました。「トルコ国軍で差別はあっただろうか、なかっただろうか。」(また)今までやらなかったことをこの本では行いました。

―それは何ですか?

本をある弁護士に読んでもらいました。なぜならご存じでしょうが、(トルコ刑法318に)「国民に兵役を疎ませる」という条項があります。非常にデリケートな問題です。弁護士は読み、彼の提案に則り何箇所か表現を和らげたり削除したりしました。訂正個所は非常に少なかったですが。全体として何らかの不足が生じた訳ではなく、わずかな修正を行ったといえましょう。ポジティブな意味での改善はありませんでしたが。

―経験を語った人の多くは名前を公表しませんでした。彼らはその理由を話しましたか?

そのようなトラウマ、私は次のような表現にうんざりするのです。常に口にされる団結、連帯、共生などは都市伝説なのです。著書に登場する人々の態度は実際この都市伝説をぶち壊しました。手を握りしめて「こんなに殴られた、もう二度と殴られまい」と言っていました。なぜなら、経験により確かだからです。自分の身に何か降り掛かると考えているのです。

―呼びかけに返信をした人たちのほとんどがユダヤ系であり、アルメニア系の例が数例というのは偶然ではありませんよね。

アルメニア系からはごくごくわずかの人から返信が来ました。ユダヤ系の経験とアルメニア系の経験にはもちろん違いがあります。問題の面からも国との関わりの面からも。アルメニア系兵士の問題は1915年(の出来事)に関係があります。兵役へ赴き、あれこれの理由で1915年の話題になるとアルメニア系に対してプロパガンダが行われまし た。発言は彼を傷つけました。

―非ムスリムの軍との関係は「彼らは祖国に尽くしていない」という言葉のうえに築かれています。また「殉職(注;元来、殉教を意味する)しなかった」という意見もあります。

殉職の観念は直接イスラム教に結びつきます。イスラム主義者はこれを受け入れませんが。そうです、彼らは国のために命を落としましたが、我々の理解している意味での殉職とは違うのです。なぜなら、ムスリムではないからです。これは、トルコ社会全体の問題です。平等などないのです、非ムスリムとムスリム(という線引き)があるのです。

―トルコ国軍は世俗主義をもっとも強調する組織です。殉職を軍事的ではなく宗教的観念として続けているのはなんという矛盾でしょうか。

信じるか信じないかはわかりません。(でも)ウミト・オズダア氏の記憶にみてとれます。少尉は食事の前に「神(タンル)に感謝します」といいます。オズダア氏は厳しく反対し「アッラーに感謝します、というべき」といいました。トルコ国軍の中での矛盾はこれです。思うに、彼らはこうした矛盾を生み出したくないのですが、今いる人々の本性はこれなのです。

―トルコ国軍もこの本性にしたがって振る舞っていますか?

政治もこのようです。人口面で多数を占める人々がいかに考えるかにより、指導者の立場にいる人もそのように振る舞います。


■「兵役に就いた人たちの間で最も困難な状況だったのはアルメニア系である」

―共和国の特に初頭

ーあなたは25年における差別に注目しています。しかし明文化された決まりがなく、目に見えない社会的な障害がある(とおっしゃいます)。これらの障害とは何でしょうか。

例えば、ちゃんと準備しているにも関わらず非ムスリムはなんら軍事学校の試験に合格できなかった。一党独裁制の時代の新聞広告ではトルコ人という考え方に民族や宗教の価値観が刷り込まれました。法的な障害などはなかったが、実際にはあったのです。障害は1946年になくなりました。

―この変化は何によるのですか?民主党の善意によるものなのですか?

事態は変わってきています。1946年の後、新しい世界が作られています。トルコは自由陣営に入ることを決め、人権宣言に署名しました。その宣言の内容は明らかです。そうでなければ人々の意見が変わるとは思えません。

―非ムスリムが差別に出くわさなかった時代はあるのでしょうか?

それに答えるのは難しいですね。我々は表出するものを取り上げて見ています。内状を見ていません。しかしわかる範囲では、80年代後半まで事態はこのように進んでいました。

―今の状況はどうなのですか?

私の意見では、多いに後退しました。しかしアルメニア系の人たちには異なる目で、異なる偏見で、つまりユダヤ系、ギリシャ系、またはシリア正教徒とは異なる視線を注いでいると推測します。トルコ国軍は記録を調べ、それは総合的な記録です。それはアルメニア系の集団の総合的記録で、それに基づきあれこれ振る舞いを決め、悪いことがあればそれに基づき行動します。

―振る舞いが最も困難なのは誰ですか?

アルメニア系です。1915年の問題のために取り調べられ、検査されました。自分たち(の忠誠)を証明しなければなりませんでした。

―昨今は軍に入ったユダヤ系のほうが困難ではないですか?

困難です。イスラエルとシオニズムに関する否定的な話題に直面しました。これへの返答は非常にシンプルです。「私はトルコ国民だ。イスラエルに関わる問題に関心がありません。」

■フラント・ディンク氏はアルメニア社会を変えた

―著書で、(軍警察で兵役中の)セヴァグ・バルクチュ氏の死について言及していらっしゃいますね。それよりも前1991年にあるアルメニア人兵士が再び事件で殺されています、ヌリ・デイルメンジ氏です。当時アルメニア社会ではほぼ反発がなかった一方、今日は非常に強い反発があります。その違いはなんなのでしょうか。

その時期のアルメニア社会と1996年以降は、つまりアゴス紙が報道を始めたあとのアルメニア社会との間にはものすごい違いがあるのです。ひとつは友好的で、声を上げない、従順なアルメニア人の典型です。96年以降では、強情で、強硬でしっかと「少数派の代弁者」と描写出来る意思表明を持っている、そして目の前の出来事だけでなく過去についても要望を行うタイプです。

―フラント・ディンク氏がアルメニア社会をどのように変えたのかわかります。

非常に変わりました。今日発言力のある人物の多くは彼に影響を受けています。アゴス紙で育った人々です。次のようなこともあります。トルコの知識人から支持されなかった場合、反発はそんなには持続しないでしょう。(アルメニア系の)セヴァグ氏の問題においてそれがわかりました。しかしユダヤ系社会(の問題)では知識人からの支持はありませんでした。確かにユダヤ系社会は閉鎖的で、問題を明らかにしません。ギリシャ系について言うならば、人がいません、公共の場でギリシャ系(社会)代弁者の数はたった 1,2名しかいない。

―この2人の兵士の他にもトルコ国軍には似たような事件はあったのですか?

いいえ。この二つは偶然です。もうひとつもありますが、その事件は銃によるものではなく、1960年に火災から友人を救おうとした時に死亡したヴァシル・ハリザノス氏です。

■多文化社会ではない、嘘はやめよう

―オスマン時代に共生の文化があったと言われています。しかしあなたは非ムスリムの兵士への差別がオスマン時代にはじまったと書いていますね。

オスマン時代は実は宗教的差異の上に成り立った帝国なのです。みな自分の立場を分かっていました。非ムスリムには兵役を強制せず、その代わりに税を取っていました。実は非ムスリムも、死ぬことを望んではおらず、ムスリムも非ムスリムが自分たちに忠実なのかと心配していました。共和国は差別の上に成り立ったわけではなく、逆に平等を訴えていました。しかし過去の記憶は変わりませんでした。

―その記憶には共生はないのですか?

今日、一般的なムスリムのトルコ人は非ムスリムの人とどこで知りあうでしょうか?7300万人の国に合計10万人の非ムスリムがいる。イスタンブルで、イズミルで、ハタイで非ムスリムの人々は暮らしている。数的にみても、この国は多文化ではなく、多宗教でもない。嘘を言うのはやめましょう。みなそうであることを知っているのですが、政治的目的で、トルコが単にイスラム国として描かれまいと、この人々は残念ながら利用されたのです。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:倉田杏実 )
( 記事ID:23923 )