コラム:東アラブの少数派、さながら絶滅危惧種のパンダの振る舞い
2011年09月16日付 al-Hayat 紙
■ さながら絶滅危惧種のパンダの振る舞い
2011年9月16日『アル=ハヤート』
【フサーム・アイターニー】
東アラブ地域における宗派的・人種的少数派集団は、まるで自らが絶滅危惧種であるかのように振舞っている。最大限の保護を要求する一方、自らはパートナーシップにおける最低限の義務さえも免れようとしているからだ。
これらの少数派、特にキリスト教徒は、東アラブ地域に留まるための保障を望んでおり、さもなければ西洋へ移住し、この地域に残る者を文化的・文明的に置き去りにすると主張する。少数派を擁護する妄言は止まるところを知らず、そもそもキリスト教徒及びその他少数派の存在に代表される文明の多様性抜きにして東アラブ地域の存在意義はないと主張するに至っている。一般論として、何世紀にも亘って受容可能な水準での宗教的寛容性を特徴としてきたシャーム地方及び肥沃な三日月地帯において、一定の文化的・人種的な多様性・多元性を保持する事は適切であると言えよう。
しかし矛盾するのは、少数派集団が権力に到達し得た場合には、他者の排除や権力の独占といった考え方を放棄しない点である。イラクとシリアのバアス党体制の歴史は、政権を奪取した場合に少数派が陥る病弊の明らかな事例だと言えよう。1950~60年代のイラクにおけるバアス党と共産党の抗争は、アラブ民族主義や階級闘争を隠れ蓑にした宗派間の戦争であった。また70~80年代にシリアで発生した事件では、イスラエルや米国の攻撃に抵抗する必要性が前面に押し出され、宗派的な側面が埋没させられてしまった。
レバノンの一部のキリスト教徒指導者らの声明を読み、シリア革命における協力関係の構図を描いてみれば、根絶の危機に晒されることを危惧し政権における完全な取り分の獲得を要求する少数派が、地域情勢の成り行きの理解を大きく誤っていることを見て取るのはさほど難しくないだろう。急速に終焉へと近づく宗派主義体制を支持することによって少数派がその権利を確保することはできないのだ。
私は宗派間や少数民族との関係において深刻な危機が存在することを否定しようとしているわけではない。またアイデンティティーが調和し、明確な社会階級のみに分かれており、外国勢力の手先か愛国心が意識の中に根づいた人々だけが存在する社会という非現実的なイメージを描こうとしているわけでもない。言うまでもなく、宗派への帰属は過去においてもそうであったように当分の間は、個人や集団を分類するにあたって、またそれらの権力における位置付けや分配の過程において、重要な役割を担うことであろう。
ここに問題の核心がある。すなわち何を根拠にして権力の配分を行うべきかということだ。民主主義が多数派の少数派に対する支配に直接結びつくという不安は、正当かつもっともな不安だということを認めよう。一方で、レバノンとイラクにおける宗派間の権力分配のモデルが、実際には政府機能を麻痺させ、幅広い国民合意形成の可能性を破壊していることも認めよう。同様に、国民的かつ強力な司法機関と治安機関が構築され、市民社会が強化され、あらゆる自由が確立されていない状態で民主主義と世俗主義を結びつけることは、結果の予測できない冒険になるだろう。
その一方、少数派に対する過剰な庇護や保証は、彼らの利益を優遇するある種の差別につながる。レバノンでの明らかな事例や、イラクやシリアでの覆い隠された事例は、繰り返すべきものだとは思われない。
宗派間関係における問題の存在を否定することの危険性は、我々が抱える全ての危機を打開するための入り口は、宗派間関係における妥協だということに固執することの危険性に匹敵する。しかし、東アラブ地域における諸集団の間の問題については、各地域や国家で適用の可能な解決法は未だに見つかっていないと言わざるを得ない。悲劇的なことに、少数派集団の指導者らは、さながら絶滅危惧種のパンダのような振る舞いを他者が受け入れることを望んでいる。「為すことすべてが赦される」というわけだ。そして、「外の世界はすべからくパンダの機嫌に合わせて行動しなければならない、さもなければ…」というのだ。
控えめに言っても、このような態度では東アラブ地域の状況とも、現代世界のいかなる地域とも調和し得るはずがあるまい。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:川上誠一 )
( 記事ID:23986 )