セマヴィ・エイジェ教授とのインタビュー
2011年11月06日付 Yeni Safak 紙


イスタンブル、アナトリア、バルカン半島、中東の歴史や文化、建築に関して行った研究や著書が知られているセマヴィ・エイジェ教授は、芸術史部門で大統領府文化芸術大賞を受賞した。受賞とバイラムの喜びをエイジェ教授と共有した。

今年、大統領府の文化芸術大賞の芸術史部門でビザンツ・オスマン史の専門家セマヴィ・エイジェ教授が受賞した。エイジェ教授は受賞を聞いた時、喜びと驚きを同時に感じたと言い、「国に忘れられたと思っていた時に、私の受賞を聞き、とても驚きました。昔国家元首と文化相により不当に自分の職務から遠ざけられ、私の功績を無視しようとした国で、このような知らせが届いたら、あなたなら信じられましたか?」と言って、賞が自分に与えられた驚きを隠しきれない。

ドイツ考古学研究所の正式なメンバーであり、ベルギー王室アカデミーの会員、フランス政府レジオン・ドヌール勲章の受章者でもあるというエイジェ教授は、「この国で長い間、文化や芸術、建築、歴史に奉仕し、本を執筆し、研究を行い、学生を育ててきた一人の人間として、残念ながらほとんど国や各省によって無視されてきました。『私にはトルコで影響力はない。もう少し長く生きたって何になるって言うんだ。結局時間が経てば私たちはあの世に行く。誰も私たちの事を思い出さない、忘れられて行くんだ』と考えていました。このようなバイラムをまた迎えるつもりでした。しかしこの賞の知らせを聞いて、正直初めは信じられませんでした。『きっとこれは冗談に違いない』と思いました」と言う。

■エヴレン・パシャが命令し、私は仕事を辞めさせられた

ケナン・エヴレン氏(第7代大統領)により理由さえ知らされないままトルコ歴史協会をやめさせられ、文化省によって文化遺産協会のメンバーから外され、裁判所の判決で理由を聞きたがったがために1度戻った文化遺産協会のメンバーから再び外されたセマヴィ・エイジェ教授は、芸術史部門で大統領府文化芸術大賞が自分に与えられた事を、「遅いとはいえ、私たちが努力や奉仕をする事にいつも幸せを感じるこの国民やこの国、この国家の最高位からこの賞にふさわしいとみなされる事は当然喜ばしいことです」と語る。

■イデオロギー的アプローチは歴史を害した

セマヴィ・エイジェ教授は、文化遺産協会では長年にわたりオスマン時代の作品に対して進歩的・革命的なイデオロギーのアプローチがなされ、歴史的なオスマン時代の作品の修理と修復は反対されてきたと語り、「私たちは何年間もこの考え方と戦ってきました。協会で何度も一つのオスマン時代の作品を救おうと努めている一方で、そのような考え方を持つ人々はあからさまに作品を救ったり修復したりする代わりに、それが損なわれるように努力しました。トルコでは残念ながら、この種の悲しい出来事がしばしば行われてきました。共和国初期にも、1940年代にも、メンデレスの時代にも、その後の時代にも起こっており、今日も起こっている。歴史や文化、建築はどのような見方であれ、イデオロギー的な固定観念で見るべきではないのです」と語る。

■この土地にはビザンツだけが存在したのではない

セマヴィ・エイジェ教授は、イスタンブルとアナトリアは交互に起こった諸文明の連続であり、片方を見てもう片方を見ないという姿勢は歴史・文化学に反すると述べ、「私は研究の中でビザンツだけでなく、セルジューク朝やオスマン朝の芸術や建築、文化に興味を持ちました。この土地を一つの時代としてだけ扱おうとするなら、この歴史的な経緯や一体性を無視することになるのです。イスタンブルもアナトリアも、一部の人が主張するようにビザンツで始まったのではありません。この土地にはもっとずっと昔、他の民族や国家も存在したのです。ビザンツもあったが、セルジューク朝もオスマン朝もあった。つまり否定によって歴史やリアリズムは生まれません。一つの事をやろうという時、もう片方を壊そうという考え方はあってはいけないのです。何年間もこのような過ちが行われています。また、ある土地の地下にあるものを掘り出そうと言う時、その土地の地上にあるものを無視しようという考え方もやめないといけません」と言う。

■バイラムがこの国民を一つに留めた

受賞により2つのバイラムを同時に味わっているというエイジェ教授は、昔のバイラムについて次のように語った。「バイラムやバイラムのあいさつのといった考え方は、私たちが人間の間で家族や親戚や、国民でいられる、そうして生きられる秘訣の一つだった。しかし残念ながら、私たちはこの考え方や感情、精神からどんどん遠ざかっているのです。年に2回のバイラムでさえ、家族で集まったり、大人も子供も抱きしめ合ったり、亡くなった人を思い出したり、残された者たちと共に一緒にいたり、愛や友情、喜びや幸せを分かち合ったりする事は難しくなりました。最近ではバイラムになってバカンスに行けたらいいのに、という考え方を定着させようする試みが行われた。この外から来た、私たちに合わない、押し付けられた考え方の結果、家族の絆が崩れ始めたのです。これに、国民として一刻も早く気付かなければなりません。そうでなければ手遅れになってしまいます。特にバイラム中は人々の間の距離が縮まりました。とくに理由はなくとも、人は昔のバイラムを懐かしんでいます。自分の家族や親戚、一族と離れて暮らしている人々も、遠くから来ていました。いつも一緒の食事、チャイ、ご機嫌伺い、何時間にもわたるおしゃべり・・・なんて良かったでしょう。人は常に昔を懐かしんでいます。」

■バイラムの朝がとても恋しい

バイラムの朝、息子や兄弟を連れた大人たちがモスクに行ったものでした。モスクでバイラムのあいさつをした後、家に帰り、その後お墓参りがされました。バイラムの衣装はその後着られました。家族の中で一番の年長者の家に集まりました。(バイラムの)1日目は私たちの家は人で溢れたものでした。犠牲獣が屠殺された後は、肉が配られ、大きな食卓が出され、カヴルマ(肉のソテー)をおいしく食べたものです。そして子供たちにとって最も楽しみな時間が始まります。(年長者の)手に口づけをし、バイラムのお小遣いをもらう時間は、私の子供のころの最も素敵なバイラムの思い出です。お客さんにも必ず器に盛られたロクム(ターキッシュデライト)や白いアーモンドのお菓子がふるまわれました。その上8~10種類のアキデ・シェケリ(ナッツやゴマなどが入ったものもある、大粒のキャンディ)もありました。今日ではもうアキデ・シェケリをふるまう習慣もあまり残っていません。

■バイラム会場は最高だった

私たちが子供の頃、バイラムはとても素敵なものでした。今の子供たちにとって、バイラムが私たちの子供の頃のように楽しいものなのかどうかは分かりません。イスタンブルでは子供たちのために、カドゥキョイやカスムパシャ、カドゥルガ・ジンジ広場で素晴らしいバイラム会場がつくられたものでした。このバイラム会場には観覧車や、劇場がありました。当時バイラムは子供たちにとってまたとないお楽しみでした。バイラムでは色々なところを訪問をして過ごしました。その後バイラム会場は自ずと消えて行きました。全て片づけられ、行ってしまいました。

■アナトリア、バルカン半島、中東で働いた

セマヴィ・エイジェ教授は、自らの研究を以下のように説明している。「私はビザンツ芸術の専門家としてより知られています。トルコやトラキヤの様々な場所にあるビザンツ芸術について研究しました。何年間もビザンツ芸術についての授業をしました。しかしオスマン芸術の専門家でもありました。バルカン半島の共産主義体制時代、ルーマニアやブルガリア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ポーランド、アルバニアを数回訪れ、その国々にある多くのオスマン時代の作品を研究し、これらについて論文を書きました。」

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:24471 )