Semih İdizコラム:テロに宗教も人種もない―独民族主義右翼テロとイスラム過激派テロ
2011年11月16日付 Milliyet 紙
経済危機に喘ぐヨーロッパ人は今回の極右テロに直面しショックを受けた。ドイツ人はネオナチのテロ集団による犯行が明らかとなった「ケバブ屋殺人」が理由で、自国の政治家たちの言うところの「国恥」 を味わっている。
ノルウェー人の多くは先日裁判所へ出頭したアンネシュ・ブレイビクが国からイスラム教徒を「一掃」するために77人もの若い命を奪ったことのショックをいまだ拭いきれてはいない。
結果として西欧の最も「豊か」で最も「幸せ」な国は、最も恐ろしいテロリストの一人を生み出してしまった。
過激であれ穏健であれこの現実に耐えることは人種差別主義者であるヨーロッパ人にとって容易ではない。我々が数ヶ月前にヘルシンキを訪問した際にもこのことが見てとれた。ノルウェーでのテロ攻撃は金髪青目の「土着の人間」が実行したのだと理解されているにも関わらず、極右「真のフィンランド」党の党員は一日中テレビで「イスラムのテロ」に文句を言い続けていた。
■不安と危機
9.11以後に起きたテロ攻撃すべてを「イスラムに基づく」ものだと信じていたドイツ人やノルウェー人の間で今日生じているショックを増加させているのは、結局のところ彼らの偏見なのだ。このような状況下でドイツ人が今、「10年来、情報機関を通じてその存在が知られているネオナチはどうなる。逮捕されていないメンバーはトルコ人10人をまた殺害するかもしれない」と問うことは実に意味がある。
「ケバブ屋殺人」もアンネシュ・ブレイビクも「例外なケース」だと言い、その責任から逃れようとするヨーロッパ人ももちろんいる。しかし問題を正しく捉えているヨーロッパ人は、ヨーロッパ大陸で広まった、民族主義右翼へのネガティブな社会の空気をも考慮に入れながら、問題はそれほどやすやすとは解決できないことを強調している。
ヨーロッパの若者が第二次世界大戦への道を開いた原動力を十分に分かっていないとしても、多くのヨーロッパ人は近代に大陸で行われたその(大戦の)蛮行を忘れてはいない。このためケバブ屋殺人、ネオナチ、アンネシュ・ブレイビクを「例外」として片付けてしまうことの弊害に気付いている。
ここ百年ほどに限ってみても、ヨーロッパが最も危険な状況に陥るのは、大陸全土で経済危機や社会的不信感が生じた時であったことがわかる。どの国であろうと、宗教的過激派と民族主義右翼を肥大させるものは、常に社会的な恐怖感や不信感なのだ。
■過去には誰がいたか?
このような状況では犯人探しがなされる。ヨーロッパでは過去にはユダヤ人、プロテスタント、あるいはカトリックだったが、今日ではそれがイスラム教徒なのだ。しかし世界はもはや1930年代や1940年代の世界ではない。世界の均衡が全く違う。今日ヨーロッパでは25億3千万人のイスラム教徒が住んでいる。
この中の一部が過激化し、社会の現状に強く反対したとしても、大部分は融和的で勤勉で日々の生活に没頭する人々である。さらにヨーロッパの右翼の間で「イスラム教徒をヨーロッパから追放する」情熱が生じるようになったとはいえ、それを実現することはもはや不可能である。イスラム教徒はすでにヨーロッパの構成員であり、ヨーロッパ人はこれを認める他ない。
■現実から目を背けていると非難すること
しかし我々がこのように述べたところから間違った解釈が生まれることは望まない。イスラムの名の下に行われたテロに対して「キリスト教徒のテロリスト」の存在を指摘することで「均衡を図ろう」としているのではない。イスラムの名の下に行われたテロがイスラム世界で十分に非難されていないことも分かっている。エルドアン首相でさえ我々が先日南アフリカへ同行した際にこのことを認めていた。このためイスラム教徒もテロに関してより客観的になる必要がある。しばしば言われているようにイスラムの教えにテロは存在しないにせよ、イスラムの名の下にテロが行われていることは現代の基本的事実の一つであることを我々は否定できないのだから。
ノルウェーやドイツで起きた殺人は、テロに宗教も人種もないことを際立たせた。このことから目下経済的、社会的、政治的危機と格闘するヨーロッパ人が引き出しうる大事な教訓がある (もちろんそれができるならば、だが) 。それは他者を「現実から目を背ける」として非難することを好むヨーロッパ人は、なぜか自身が現実から目を背けていることをちっとも分かっていないということだ。
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( 翻訳者:大嶽真梨子 )
( 記事ID:24566 )