エルドアン首相「政府として謝罪」―デルスィム関連文書4点公開
2011年11月23日付 Yeni Safak 紙
レジェプ・タイイプ・エルドアン首相が今日発表したデルスィム関連の4点の公文書には、デルスィム(現トゥンジェリ)に関連する決定及び同地域へ行われた軍事掃討作戦の結果が記載されている。
エルドアン首相が今日発表した公文書は、軍警察総司令部により作成されたデルスィム報告書、1935年に制定されたトゥンジェリ県統治に関する法、内務省により作成されたトゥンジェリで1936年以降実行された掃討作戦の結果に関する報告書、掃討作戦の結果を示すリストと、トゥンジェリから1万1,683人が強制移住させられ、2,000人がさらに移住させられるとの閣議決定から構成されている。
デルスィム関連の最初の公文書は、軍警察総司令部により準備されたデルスィム報告書である。100部のみ印刷され「極秘・機密」の印が押された報告書には、特にシェイフ・サイードの蜂起の後、他の東部諸県とともにデルスィムも問題視されていたことが記されている。
報告書には次のような記載が見られる:
「デルスィムは日に日にクルド化、先鋭化しており、危険度が増している。セイト・ルザーの政府に対する(反抗的な)態度が原因でデルスィムに敵意が向けられていることに落胆しているいくつかの部族の感情を利用することはできるだろう。
デルスィムはトルコ政府にとって腫物のような存在である。この腫物を取り除き、また起こりうる悲劇を防ぐことは、平和な国家の名の下必須義務なのだ。
ここの住民は、非情に頭が良く、狡猾なペテン師たちだ。政府が弱いときには攻撃的になり、強いときには従順になる…」
1935年に施行されたトゥンジェリ県統治法に関する公文書には、県の財産及び軍部に関する基本事項が記されている。
エルドアン首相が今日発表したデルスィム関連の公文書には、デルスィム地域で実行された掃討作戦により合計1万3,806人が命を失ったという情報が書かれている。
デルスィム関連の第3の公文書は、1939年11月2日に当時の内相ファイク・オズトゥラクの署名と共に軍警察総司令部上級幹部に送られた文書である。同文書には、トゥンジェリ法の適用から同日(1939年11月2日)までデルスィムにて行われた掃討作戦の報告が記されている。それによると、1937年に行われた掃討作戦で262人、1938年には1万3,160人、1939年には384人、合計1万3806人が命を失ったとの情報が書かれている。3年間に渡り行われた掃討作戦では合計2,967人が生きたまま捕えられ、4,616人が降参したとの情報も見られる。同作戦では合計199人の兵士が殉職し、354人の兵士が負傷、合計6,177個の武器が徴収されたと明らかにされている。
■アナトリア西部の都市に強制移住
デルスィム関連のもう一つの公文書は、1938年12月23日付の閣議決定についてである。同決定文書にはイスメト・イノニュ大統領とジェラル・バヤル首相、アリ・チェティンカヤ公共事業相の署名が見られる。
決定では、トゥンジェリから西へと移住させられた約1万2,000人の状況を取り上げており、1万1,683人に対し強制移住が実行され、残り514人は山や洞窟に隠れていた人2,000人と共に同決定により移住されることが承認されたとの情報が記載されている。
デルスィム関連の最後の公文書はというと、当時の内相シュキュル・カヤが1938年9月27日に軍警察総司令部に送り、「デルスィム作戦の後、今日バトマンのサソン郡で実行された掃討作戦の結果を記した文書」である。
公文書には、法と秩序に反対の意を示し、1934年ににおける人口調査を妨害、ケマル副郡長を殺害し、同郡のムフティーを負傷させ、事実上反乱の状況となっていると主張されたサソン郡の全住民が西部都市に移住させられたと明らかにされる一方で、1935年から同日(1938年9月27日)までに実行された作戦で834人が死亡したとされている。闘争では80人の兵士が殉職し、106人の兵士が負傷したとの情報も文書に記載されている。
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( 翻訳者:釘田遼香 )
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