「デルスィム謝罪は、AKP政権10年の一番よい仕事」
2011年11月25日付 Hurriyet 紙

レジェプ・タイイプ・エルドアン首相のデルスィムの大量殺戮に対する謝罪は「10年間のAKP 政権において一番よい仕事だ」と評価するマルマラ大学のアフメト・デミレル教授曰く、「パンドラの箱は開けられた。」そして過去と対話するプロセスが始まった。

デミレル氏は、デイリーニュースとのインタビューで、首相の謝罪はその背後にある理由が何であろうと「好ましい一歩だ」と評価し、過去と対話するプロセスがもう後戻りできない形で始まったことを強調して、これはAKP が行ったことの中で「一番よい仕事」であると話した。

マルマラ大学の国際関係学部で教鞭をとっているアフメト・デミレル教授は、共和国初期について研究しており、デルスィムの悲劇を政争の材料と捉えるべきではないと強調した。「デルスィムを政治的な利益のために使うべきではない」と話し、デルスィムの問題で野党が標的とされていることを非難した。(以下は、質問に対するデミレル教授のコメントである。)

■デルスィムで何が起こったのか?

共和国時代の1921 年から1938 年にかけて16 回の反乱があった。そのうちの15 件はまぎれもなくクルド人の反乱であったが、デルスィムは反乱ではない。デルスィムを他と区別するのはこの点だ。参謀本部の資料のリストには、他のものに関しては「反乱」と書いてあるのに、デルスィムに関しては、「作戦」と書いてある。

■クルド人はなぜ反乱を起こしたのか?

1920 年から24 年にかけて、とくに第一回大国民議会期での演説では、国民が二つの構成要素からなることが強調されている。例えば、「この国会はトルコ人とクルド人だけに発言権がある」との発言がある。

第二回大国民議会期から、国民国家においてトルコ人という要素が前面に出される必要があるということが明らかにされ始め、トルコナショナリズムが強調され始める。1924 年、25 年はシェイフ・サイードの反乱が鎮圧された時期でもある。私は国会の記録を何度も調査した。1925 年以降1946 年まで「クルド」という単語は国会で使用されず、「クルド人というものは存在せず、彼らは元来トルコ人である」という認識が定着する。トルコ化の政治が始まる。

■あの諸々の反乱は、一般的に、共和国の政治に反対する宗教的な性格の蜂起や近代化の動きへの抵抗のように説明されてきたが…

言うまでもなく、これらは、クルド人アイデンティティの拒絶に対する反乱だった。シェイフ・サイードの反乱はクルドの反乱である。しかし、「クルド人は存在しない」と言っているのに、どうしてクルド人の反乱ということができるのか。このため、すべてのことが反動的な活動、復古的な蜂起とされた。国は、クルドの反乱を、反動的な活動、外部もしくは外国に誘導された行動、東部の部族の反抗というように見ていた。我々は長い間、この4つの観点から見てきたのだ。このため、反乱は軍事的な問題として扱われる。軍事的手段によって抑圧され、反乱を起こした地域は壊死状態になる。

1931年にクルドの反乱は終わりを迎える。しかし、1930 年代後期になってもデルスィムは地理的に孤立し、交通手段の点からも国が入ることのできない地域として残った。国民国家をつくりあがたのに、この国のちょうど中央にひとつの地域があり、そこに入ることができない。そこには部族体制が存在するのだ。国がこのようなことを許すことはありえない。ここも統合し、国の管理下に置くべきだ、となる。つまり、国の権威を隅々まで及ぼそうということだ。とどのつまり彼らは山賊行為や盗賊行為をおこない、国家は徴税することはできないのである。国家にとってこの状態を許すことはできない。デルスィムは県となり、名前もトゥンジェリに変えられている。

■なぜ名前を変える必要があるのか?

これは、トルコ化キャンペーンの一つだ。その当時の報道を見れば、国がトゥンジェリに文明をもたらすと書かれている。「そこはまだ未発達であり、我々がここに文明をもたらすのだ」、と。1936 年以降、警察署や道や橋が作られる。反乱が起きたら軍がすぐ駆けつけられるようにするためだ...。もちろんこれが原因で反乱が始まる。

■しかし、一方で、国が簡単に行き来できな場所に道を作り、橋を架けるのは普通のことではないのか?

もちろん普通のことだ。国を作ったのに、ある地域にだけ入れないなんて。しかし実際には、オスマン時代から今日までそこの住民は潜在的犯罪者と考えられている。周囲を圧迫し、金をせしめている、と。もちろん中には本当に犯罪人もいるが、国は全住民を潜在的犯罪者と考えているのだ。一部の部族は攻撃を始め、警察署が攻撃されるに至り、小規模の衝突が始まる。1936年から37年の冬に、軍がこの地域を封鎖し、衝突は激化する。部族の攻撃によって軍隊に多数の死者が出る。これに対して空からの攻撃が開始され、夏頃には完全に軍の支配下に置かれた。

■抵抗は全く起こらなかったという人もいる。国家が地域を管理下に置くため軍事行動を起こすことは普通のことなのか?

抵抗はあった。国が行動を起こしたのは正しかった。しかし、作戦行動のやり方が間違っていたのだ。大して大きくはない小規模な抵抗運動に国が不釣り合いな力を行使することは許されない。抵抗した者に対してではなく、全民間人に対してキャンペーンが行われた。1937年の夏に国の支配下に置かれ、それ以降、抑制の効かないバランスを欠いた力の行使が始まる。住民は集められて一斉射撃を浴びせられる。洞窟に逃げ込んだ者にはガスが撒かれる。女性はレイプされる。

■この事件をどのように伝えるべきか。ジェノサイドだという人もいる。これは民族浄化なのか?

首相によって初めて公言されたこの地域での死者数は約1万3000人であるが、研究者らによれば4万人とも言われる。ここでの目的はある人種を絶滅させることではない。目的は、ひとつの地域の住民を絶滅させることだった。1938年に反乱から生き残った人々を殲滅する目的で新たな作戦が開始される。二つの立ち入り禁止地域が発表され、この地域にいる誰彼構わず全てが殺される。しかし、例えば1938年にディヤルバクルに住んでいたクルド人らには何もされていない。

■国はデルスィムに関してなぜここまで無慈悲に行動したのか?

その当時の政治と精神構造が深く関連していた。当時は極めて権威主義的な一党独裁体制であり、異なった意見は出ることがなく、党と国家は一体化していた。CHPは県に党代表を置くことすら許さなかった。例えばある県でCHPは、県代表を解任し、県知事に県代表の任務を任せた。県知事と県代表が違うことをしないようにと。国家の中に溶解した政党だったのだ。

■なぜデルスィムに関する真実が公表され始められるのがこれほど遅かったのか。

全ての反抗者は、宗教的かつ反動的な裏切り者と烙印を押された。我々は、異なった歴史が存在しうるということに気付くのに時間がかかった。ターニングポイントは、メテ・トゥンジャイが1981年に出版した本だった。その後、新しい世代の研究者らがすばらしい研究を残した。とくにここ20年のすばらしい歴史家らが重要な研究を残した。報告書の大部分は出版された。我々は社会として、大抵、何も起こらなかった、起こったとしても今さら引っ掻き回さないことが必要だ、と考えている。デルスィムの悲劇が世論において論争されるようになったのは、オヌル・オイメンの功績である。実際には、彼以前に多くの本が書かれていたのだが、世論には響かなかった。本を書いたとして、いったい何人の人が手に取って読むだろう。しかし、もはや賽はなげられたのだ。

■他の出来事についても、パンドラの箱は開けられるのか?

そうかもしれない。なぜなら、これはトルコにおいて初めてのことである。首相が、国家の継続性の原則を考慮して、自分がしたことではないことについて謝罪しているのだ。私から言わせれば、これはAKP政権の10年間の中で最も重要な仕事である。CHPも国家とは別に謝罪すべきである。

■CHPはなぜ謝罪すべきなのか?当時はCHPは国家そのものだったとあなたがおっしゃったのだが…

今でもCHPのリーダーらは国家の頂点にいる。この政党は1923年から46年まで国を一党支配していたのに、これまで、当時の行為への反省はなされなかった。昔のCHPと新しい CHPという区別を実現するためには、一党独裁時代に関して評価をおこなうべきである。これによって、CHPは何かを失うのではなく、むしろ手にするだろう。

■首相の謝罪は心からのものではなく、CHPに恥をかかせるために行われたという意見もあるが…

そうかもしれない。間違いなくそういった側面もある。この問題を政争の材料とすべきではない、またCHPを政治的な観点から隅に追いやる手段として使うべきではない。しかし、背後にある意図が何であろうと、首相は結果的には大変すばらしい一歩を踏み出した。第一歩を踏み出し、二歩目としてデルスィムという元の名前に戻し、公開さていない記録があるならば、公表すべきである。

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( 翻訳者:小松裕美子 )
( 記事ID:24651 )