Mehmet Y.Yilmazコラム:「トルコの国」のアリス
2011年11月28日付 Hurriyet 紙

『不思議の国のアリス』のアリスは、物語のある場面でこう言っている。

「ああ神様!今日は何て奇妙なの。昨日は何もかもいつも通りだったのに。一晩で変わっちゃったのかしら、わたし。ええーと、今朝起きたときは同じだったかしら?何か変わったような・・・。でもわたしがわたしじゃなかったとしたら、変わっちゃったんだとしたら、わたしは誰?これこそが究極のなぞだわ!」

これは、トルコで夜眠りにつき朝何事もなく目覚めることのできた人間なら誰でも言い得たセリフだ。
そして、なによりもレジェプ・タイイプ・エルドアン首相の口から発せられるのがふさわしい言葉であると、私には思えてならない。
御用メディアに登場する「太鼓持ちたち」を見てみると、彼らは言う「トルコはもう昔と違う、変わっている、変わってしまった」
しかしなぞはなぞのままである。トルコが変わったのなら、ではなにになったのか?
私のいる場所からはトルコがそれほど変わったようには見えない。
デルスィムの悲劇に関する議論はこの一つの例である。我々は無駄なことばかりしている。首相は共和人民党(CHP)党首の弱みを見つけたと考え、そこを集中的に攻撃している。
これはトルコ特有の状況である!昨日まで「クルド、デルスィム、クズルバシュ、アレヴィー」という言葉が発せられるたびに、毛嫌いして鳥肌を立てていた者たちが、今は「謝罪者」の立場にある!
有り得ないことだろうか?いや間違いなく有り得る。人間の政治思想は時の中で変化し得る、私はそう確信している。
しかしそこにはその「一貫性」が見られなければならない。
変化と呼ばれるものが本当の変化であるためには、「今日はああで、明日はこう」というような振る舞い方があってはならない。5ヶ月前、演説で皆に向かって「アレヴィー派には投票するな」と言っていた政治家が、今はご覧の通り「我が兄弟、アレヴィー」のことを語っている。この人物が前の立場から今の立場へ、どのような思考プロセスを辿ってきたのか、自分に対する批判をきちんと行ってきたのか、我々は知らねばならない。それを知ったとき初めて変わったということを信じようではないか!
こうした自己批判があればこそ、明日になって元の考えに戻ったりはしないだろうと我々は確信するのだ。
これをしなければ、翌朝目覚めて自分がまた同じことを言っているのに気づくだろう。「ああ神様!今日は何て奇妙なの。昨日は何もかもいつも通りだったのに。一晩で変わっちゃったのかしら、わたし。ええーと、今朝起きたときは同じだったかしら?何か変わったような・・・。でもわたしがわたしじゃなかったとしたら、変わっちゃったんだとしたら、わたしは誰?これこそが究極のなぞだわ!」

■歴史家ではなく政治家の責任

ケマル・クルチダルオールCHP党首は、デルスィムに関する議論と「国の謝罪問題」を歴史家の手にゆだねるべきだと述べた。
私にはこれがとても馴染みのやり方に思われる。トルコはアルメニア人の強制移住が虐殺に繋がったか否かということに関する議論をも、ご存知のように歴史家の手にゆだねるのを望んでいる。首相もアルメニア問題については、同じように歴史家の議論を望んでいるが、今回の立場は違う!
この二つの問題はどちらも、その本質を考えると歴史家に決定をゆだねることができるようなものではない。
この種の決定は、まちがいなく政治的なものである。政治家が自分の考えをまとめ、立場を明らかにする際、もちろん歴史家から助力や知識を得るだろう。しかし決定は政治家のものである。社会の問題を解くのは政治である、政治はそのために行なわれる。
デルスィムで起きたことを、「蜂起を鎮圧したもの」として説明しようという試みも、間違いなく政治的な態度である。
国家がその国の一体性に対し攻撃がなされたら、ためらわずに鎮圧するであろうこと、必要とあらばこれに最も強硬な手段を用いることに疑いは無い。歴史はその例でいっぱいだ。
我々が知らねばならないのはまず「蜂起があったのか」という質問の答えである。この質問の答えが「あった」というものだったら、今度はこう尋ねねばならない。「国は蜂起を鎮圧する際、武装メンバーにだけ武力を行使したのか。もしくは罪のない一般市民にも行使したのか?」
これらの質問の答えを見つけることができるのも、歴史家ではなく、あらゆる文書や情報を入手できるトルコ大国民議会(TBMM)調査委員会である。野党の仕事は、与党にこれをきちんと果たさせることであるはずだ。

■フェフミタハ氏よ、分かち合えば人生は素晴らしい。

レジェプ・タイイプ・エルドアン首相が「表紙になった」タイム誌には、「偉大な新聞記者二人が匿名を条件に首相に関する批判的な考えを述べたこと」も書かれていた。
私も以前このことについてこのコラムで書き、「考えを率直に述べるのを恐れる記者は、偉大な記者であるはずはない」と述べた。この二人の記者がどのような考えを言うのを恐れたのか、何をコラムに書けなかったのか、推測するに難くない。
二人が誰であるかについても一般的な推測をしてみたが、不要な論争は好まないので名前を出さなかった。
スター紙の表裏ふたつの顔を持つ記者フェフミタハ・コルクヴァンチ氏は、私が保身のためにその記事を書いたと思ったらしい。同氏によると、私が記事を書いたのは自分がその二人のうちの一人でないことを主張したかったためらしい!
フェフミタハ・コルクヴァンチ氏よ、私はあなたに何と言えばいいか分からない。「首相恐怖症」がメディアという山を怯えさせるこの国において、日々私が何を書いてきたか分かっているはずだ。これをいつまで続けることができるかさえ分からないが、私は書きつづけている。あなたは、読んだ内容を理解することが困難なのだろうか?
私はこう感じている。自分があの二人のうちの一人であると世間に知られる、もしくはそう思われることへの警戒心が、あなたにあの記事を書かせたのだろう。
何も悲しむことは無い。頻繁に外国の新聞で喋り、ウィキリークスにまで登場する、「書くときは首相の『太鼓持ち』、陰で喋るときは首相の批判者になり得る人々」のリストに載っているのはあなただけではない。

(あなたと同類の)彼らは、自分たちが何だかを知っている。そして私の聞くところによるとあなたが(自分ひとりだけ)この疑惑から抜け出そうとしていることを、彼らはよく思っていないらしい。広告のセリフはこう言っている。「分かち合えば人生は素晴らしい!」
あなたは人生とその喜びだけでなく、リスクをも同類の友らと分かち合うべきだ。

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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:24683 )