「過去へ!オスマン帝国と考古学の物語」展、はじまる
2011年12月09日付 Zaman 紙
ガラタ・サルトが開催する「過去へ!オスマン帝国と考古学の物語」展では、1753年から1914年までの、エジプト、ギリシャ、トロイ、イスタンブル、エフェソス、バアルベク、ネムルート、メソポタミアの考古学的地域に関するものが展示されている。展覧会では考古学に関する様々な展示の中に、(当時の)文化的、社会的、政治的な活動を見ることも可能である。
昨年ラオディキア遺跡の発掘を考古学者と見学していた時、2つの疑問が私の頭をよぎった。一つは過去の知識が未来の運命に影響を与えると信じるほとんどの人が興味を持つ細部の問題だった。たとえばチャイ・スプーンのような単純なものがどのようになっているとか、その時代に関して未知のことがらを明らかにすることが可能であっただろうかとか。もう一つの疑問は、なぜかこの地域ではあまり問われない疑問である。古代都市や、その時代に関する発見や発掘品をあまり重要視しない我々は、どうして近代の考古学的発掘に興味を持たないで来たのか、またそうしたものを自分たちのものであると主張することにも、さらには主張できないということにもなぜ関心を払ってこなかったのか。
博物館学や考古学は、この地では19世紀後半から発展を見せ始めたということが、このもやもやとした謎を解明する手立てとなっているのだ、間違いない。当時はやっていたのはローマ、古代ギリシャ、ビザンツの遺跡を発掘し、これらの文明を通してその時代を理解しようと努めることであった。西欧の考古学者たちがオスマン人と一緒に行った活動の詳細を知りたい人などいないというのも当然である。共和国となってからも同じような状態が続いた。こうしたことを考えるとき、ローマの最も重要な古代都市のひとつのアゴラ(広場)に立ち止まって、考古学とは発掘を行うこと以上に素晴らしき「堆積」であるということを、ユルスナールの有名な小説『ハドリアヌスの回想』で私は気づかされた:皇帝がマルクス・アウレリウスに宛てた手紙は、過去と未来に関する想像を石碑や文学の言葉で説明していた:「修復とは、過ぎし時と共に取り組むことであり、それを理解しあるいは変えることであり、未来における過去からの連続体を維持することを意味する。人生は短い。留まることなく、我々にとってまったく見知らぬものであるかのように、我々は我々の過去あるいは未来についてふれるのだ…。私が補強したこの城壁は、存在を失った人間のそのからだの温もりをまだ残している;まだ生まれていない人間の手は、このオベリスクに触れるであろう。私は自らの死や他者の死を考えるたびに、不滅の連続性をわれらが存在に付け加えたのだ」
考古学を「アート」として認識する人々にとって、一度滅びたものを再び物語によって意味づけながら作り直すことは、「不滅の連続性」をその存在に加えることである。このような見方をすると、オスマン領域に踏み込むことのなかった考古学者らの活動がどのように記録されてきたかを知ることは、ただ古代の文化を映し出すだけでなく、(その連続性のもつ)多層構造の中を巡り歩くことを可能にするのだ。
■大英博物館とイスタンブル考古学博物館のつながり
ガラタ・サルトが開催する「過去へ!オスマン帝国と考古学の物語」展では、1753年から1914年までの、エジプト、ギリシャ、トロイ、イスタンブル、エフェソス、バールベック、ネムルート、メソポタミアの考古学的地域について年代ごとの説明とともに、展示がなされている。最初の近代的な博物館である大英博物館とオスマン時代のイスラム・ワクフ博物館(今日のトルコ・イスラーム博物館)の間の関係性を理解し、広範囲に及ぶ考古学的発展の中に、文化的、社会的、政治的な活動を読み取ることができる。
展示品には、西欧人・オスマン人の発見者らのレポートや書籍、諸地域の(発掘)プラン、帝国博物館(イスタンブル考古学博物館)の設立に伴い、古い文物を救い出すための悪戦苦闘を示す記録や写真、当時博物館へ引き渡された物などが並んでいる。
私のように文字がねじれているようにみえたり、写本が読めない者にとって、オスマン・ハムディ・ベイの旅行メモを記したノートを見るのは興味深い経験だった。彼が地中から発掘されたすべてのものを芸術愛好者のように受け入れ、発見されたすべての破片が博物館に引き渡されることを記した書類を準備させ、さらには彼自身も偉大な芸術家であったことは、私には驚きであった。オスマン・ハムディ・ベイが1883年にネムルート山で行った発見・調査を説明する展示パネルの前に立ち尽くした。そしてなぜこの考古学的な発見が政治的行為であるのかをよりよく理解したのだ。なぜなら山の頂上にあるレリーフの拓本をとったオスマン・ハムディ・ベイの写真を見て、文化的価値への権利を主張するには大変な努力が必要だということが分かったからである。
バールベックにある神殿に関するビデオ作業を見て、オスマン考古学に関し、私がどれほど無知であったか気づいた。1900年の年鑑で、19世紀に西洋の旅行者に人気があった「バールベック」が「世界に匹敵する」と評されていたことや、ここをエフェソスと同時に屋外博物館としたことを知った。
展示品の説明を聞きたい人はwww.saltonline.orgのページで音声トルコ語・英語ガイドを聞くことができる。こうした新たな試みを行い、展覧会を企画したザイナブ・バフラニ、ゼイネプ・チェリキそしてエドヘム・エルデム各氏は、様々な学問分野の専門家15名を集め広範なテーマの書籍の編集も行った。この本は英語で出版されたが、近日中にトルコ語でも販売される予定だ。この本は、近代史を正しく理解し、評価するという観点からはとても重要だ。
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( 翻訳者:杉田直子 )
( 記事ID:24801 )