38年デルスィムの事件は、信仰と関わるもの
2011年12月25日付 Radikal 紙
メティン・カフラマン
メティン・カフラマン

デルスィム出身のアーティストであるメティン・カフラマンは、38年のデルスィム事件がエスニックではなく信仰に関わる虐殺であると主張し、「38年事件が起きている時、ディヤルバクルでは(抗議の)行進は起こらなかった」と述べた。

近代史は常にトルコにつきまとっている。顔を背けたとしても、「部外者」となることを許してくれない。そう、フランス議会の決議のように…。1915年の事件は、アメリカ上院議会が「この事件をどう名付けるか」という名目をもちだすことで、少なくとも毎年4月には議題に上る。

われわれにとっての驚きは、エルドアン首相による38年デルスィム事件に対する謝罪であった。これは重要な一歩であった。しかし、謝罪されるべき傷は山ほどある…。9月6日7日事件、マラシュ事件、チョルム事件、そしてスィヴァス事件と、そのリストは続く。“治癒”することから逃れ、表面を繕うことに努めれば努めるほどそれらの傷は開いていく。なぜなら、これらの傷は社会的な傷であるからだ。向きあわなければ、傷がふさがることはないだろう…。

それぞれが重要な多くの問題を抱えているゆえ、我々が取り組むべき課題は、それゆえ速いスピードで変わっていく。ヴァン(地震)さえもわれわれはすでに忘れてしまった。しかしこうしたことに逆らって、38年デルスィム事件に立ち戻ってみよう。音楽デュオ「メティン&ケマル・カフラマン兄弟」のメティンとデルスィムについて語り合った。ケマルもいたらなおよいが、1988年以降彼は亡命している。イスラエルに反対する活動により4年間身を潜め、その後ドイツへ逃げた。風向きが変わり、今や「春」となった、彼もまたトルコに帰郷しようと動いている。彼の帰国をメティンが一番望んでいる。「トルコでのコンサートの苦労は、私が1人で引き受けているのだから。」取材では、ケマル・カフラマンとも文通しながらやり取りした。この部分は明日にでもお伝えしよう…。

エルドアン首相による38年デルスィム事件に対する謝罪は非常に重要であったが、その後の政治家たちの「それぞれの提案をぶち壊しあう」喧嘩も、教訓的である。公文書の検討も必要だが、しかし38年デルスィム事件の一日一日を、一人一人を言葉にするカフラマン兄弟のレクイエム(アウット)は、終わることをしらない。ザザ語で歌う「Şere diyare Laç’i seru, asmén ra ax, roz vınıto(さあ行ってラチ川の上を見よ、太陽は凍てつき、空にとどまる)・・・」

■レクイエムは語る、「アタテュルク、イノニュ、そしてバヤル」

カフラマン兄弟は、信仰から民話まで、そして結婚式の民謡からレクイエムに至るまで20年間にわたってデルスィムの文化に関する記録をとり、アルバムを発表している。ケマル・カフラマンの妻であるマヴィシュ・カフラマンも、近々「デルスィムのレクイエム」というタイトルでアルバムを発売する予定だ。このアルバムには、チャナッカレからサルカムシュに至るまで、多くの痛みに焼かれたザザ語のレクイエムが入る。カフラマンは意味もなく「デルスィムの最も素晴らしい歴史家はミュージシャンだ。38年事件に関しても。10本のドキュメンタリーがつくれるほどの題材がある」と言っているわけではない。我々はずっと、デルスィム事件の責任者は誰だったのかを議論してきたので、「では、レクイエムでは38年デルスィム事件の責任を誰だといってるのかい?」と聞いてみた。「アタテュルクもイノニュも、そしてバヤルもレクイエムの中に出てくる」と話すカフラマンは、しかしこのように付け加える。「そもそもみんなに責任があるんだ」と。カフラマンは首相による謝罪を重視している、「不十分だ」としても。すなわち「マラシュ事件、チョルム事件、そしてマドゥマク事件。過去に立ち返りどれほど暗い点があろうと、9月6日7日事件もアルメニア人虐殺も、みな語られなければならない。」

大人のすべてのデルスィムの人々が、道路の開通を願い(政府に協力して)12日ずつ働いていたデルスィムで、38年事件はなぜ起きたのか?カフラマンによれば、デルスィムの人々は「あるがまま」を認められなかったために「38年事件」は起きた。

「デルスィムはどこにも属さず、自治的な土地だった。自分は自立していると感じていた地域が、反乱をおこす理由は何だと思う?(土地を治めている)自分自身に反乱を起こすはずがない。ただただ自分たちを守りたかっただけなのだ。オスマン朝に対してもそのように認めさせてきた。」しかし、もちろん「自治」は、「一つの国民」を作り出そうと望んだ共和国に逆らうものだった。

デルスィムあったのは、「自治か、それとも部族的封建制なのか」と問い、私はカフラマンに(部族的封建制打破という)政府の「公式見解」を聞いてみた。
「それは、オスマン朝以来国家が口実にしてきた見解だ。『セイイド(宗教的指導者)たちは搾取のためのシステムをつくった』などと言われている。しかし、年に1度ピール(聖者)に供えるロクマが、搾取だというのか?セイイドたちが狙われたのだ。そう、デルスィムの信仰や宗派が標的となったのだ。アリーシールの首を誰が切り落としたか知っているかい?(それは)ライベル!ライベルとは、アレヴィー信仰において先導者という意味だ。重要な地位にいる人。あなたがたがライベルに首を切り落とさせたとき、この集団はデルスィムで尽き果てたことを意味する。どの部族であれ、政府の民兵の立場に貶められたなら、それは聖なる集団が壊滅したことを意味するのだ。」

イスラムなのか、そうではないのかと、絶え間なく議論されてきたデルスィムの信仰が、なぜ標的となったのか?この答えのためには、シャイフ・ベドレッディン[訳者注:15世紀、オスマン帝国への反乱を指導したスーフィー]にも言及する必要がある。

「アレヴィー信仰やそれに類似する信仰は、ビザンツ帝国時代でも、オスマン朝においても常に抵抗の典型となっていた。彼らが守っている秩序は、ある意味コミューン的なシステムだった。だから、この土地は「希望の地」と言われていた。シャイフ・ベドレッディンが作ろうとした社会主義システムは、本来デルスィムにあり、そして「クルマンジイェ」と呼ばれるシステムだ。そのため、デルスィムは何千年もの間、抵抗者の牙城だった。」

■1993年はより絶望的

38年デルスィム事件はザザへの虐殺か、あるいは「無法者の反乱」の鎮圧か?カフラマンはどちらにも「ノー」と言い、別の切り口から語る。「38年事件はカルバラーの悲劇から続く1つのプロセスであると言っても、間違ってはいないだろう。38年事件は、信仰の問題として起こったものだ。誰も、そうラズ人もクルド人もその他の周りの人々も、あのとき(デルスィムに対し)「Allah Kurtarsın 神よ、お助け下さい」とは言わなかった。多くのベイト(詩)では「Kes mare ne vato / Allah Kurtarsın』と歌われる。ベイトはザザ語ですが、(後半)2つの単語はトルコ語だ。「Allah Kurtarsın 神よ、お助け下さい。」なぜだかわかるかい?それはこの部分を強調したかったからだ。
アナトリアでは、誰もがデルスィムの人々が虐殺されることに賛成したんだ。デルスィム(の人々)が虐殺されたとき、ディヤルバクルでは(抗議の)行進は起きなかった。ハッキャーリでも、マルディンでも、カルスでも、そして他の場所でも…。」

この会話の間、カフラマンの話は何度も38年から93年へ飛んだ。なぜなら彼自身も93年事件の被害者だからだ。彼の家族の家が焼け、移住を余儀なくされた。そのため彼は「93年デルスィム事件は、38年事件よりも絶望的」といい、われわれをより「生々しい傷」へと導く。
「今日何百人ものお年寄りのもとへ行けば、あなたがたに38年事件について語ってくれるだろう。しかし同時に93年事件についても語ってくれるに違いない。なぜなら1年間で800もの村が消え、4万人もの人々が強制退去させられたのだから。つまり、93年事件は2度目の38年事件なのだ。38年事件は終わることのない一つのプロセスのなかにある。」

「デルスィムの山々には、常に無法者がはびこっているから、ということではないのですか?」と問い、再び「公式見解」を投げかけてみた。するとカフラマンも次のような逸話で答える。

「38年虐殺事件から、当時5歳で救出されたXeceというある女性がいる。長い強制移住生活を経て、20歳のときにイスタンブルへとやってきた。自分よりも15歳年上のラズ人と結婚し、彼女は救われた。そのラズ人の夫のために言うことには、『愛情とは何か、愛とは何か、人生とは何か、それらを彼が教えてくれました。』私たちは尋ねました。『38年事件はなぜ議論されるべきなのか』と。すると彼女はこう答えました。『坊や、私はトルコの未来に暗い点が残りませんようにと願う。この暗い点がそこの残っている間は、デルスィムの山々から彼らは下りることはないでしょう』と。」

エルドアン首相の謝罪はとても素晴らしい、しかし…。この「しかし」の中身を、最後のまとめとして、カフラマンに語ってもらいたい。

「デルスィムはこの20年間で言葉を失なった。どの時代においても、国はただ変えるためだけにそこにやって来た。ある時は(スンナ派の)モスク建設をつかって、あるいは武器を伴って。そのため38年事件の議論は、アナトリアの人々のその良心を問わねばならない問題なのだ。特に(スンナ派の)保守派の人々の…。」

■デルスィムに対して票を獲得するために何かをしないでほしい

「アレヴィー融和策や、トゥンジェリ大学でのザザ語学科開設、そして38年デルスィム事件への謝罪…。これらのすべてが前向きな前進であるが、これらは行なわれつつも、そもそも何も語られてはいない。何年間も禁止されていた宗教的な実践が、今ゆっくりと許されつつある。しかしこれを感謝する必要はない。そもそも禁止は間違いなのだから。それが正されているだけなのだ。デルスィムの市民は当然のことが行なわれていることに対し、「エルドアン首相はよくやった」と言うが、彼らが(公正発展党に)投票することを期待するのは間違いだ。なぜなら市民には尻込みする部分もあるからだ。さらに「これをしてくれたのはいいが、一体その見返りには何を求められるのか?」と彼らは恐れてもいる。なぜなら、政府は常この地を変えるためにやってくるから。
一つのアイデンティティを明確に示した政党として平和民主党(BDP)は、デルスィムで2期にわたって選挙に勝った。しかしBDPは、デルスィムの差異や繊細な感性をよく理解できないでいる。イラクからベルギーまでその数を数えれば、クルマンジー語のテレビチャンネルは15個もあるが、ザザ語のチャンネルは1つもない。これは本来、国に責任のあることだが、BDPもこの不備を改善するべきだ。1993年以来ザザ語には、何も残っていない。村も残っていない。毎週誰かが自殺した、というニュースを耳にする。人々は自ら水へと飛び込んでいく。圧迫された社会、トラウマを抱えた状況がそこにはある。」

■われわれは治癒を求めている

「デルスィムの人々のトラウマはまだ続いている。誰もが治癒とリハビリを求めている。自分たちは、あれでもない、これでもない、といい続けること・・。もう十分だ!これだけの名称を与えられ、何かに似せようとされてきた。私ですら20歳になってから、トラウマを抱えるようになった。我々は痛みを追い続けるというのか?しかし、ここにはまったくちがった宝物があるのに…。」

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:24954 )