革命とは、まず初めに
2012年1月3日
【フサーム・イーターニー】
シリアの反体制派が一つにまとまるのは良いことで、分裂してしまうのは悪いこと。これはすなわち、「知恵」と要約され得るものである。バッシャール・アル=アサド大統領の体制への革命の支持者たちは、この「知恵」によって反体制派の状態や、反体制派の諸集団、諸評議会、諸委員会間の関係を眺めている。
ところで、反体制派の内部間の敵対意識が深刻化していることに疑いの余地は無く、これが革命の進行を遅らせたり、妨げたりしている。このことは、(反体制派間での)混乱の後の非難の応酬に現れている。混乱とは、カイロで「国民評議会」と「調整委員会」とが調印した共同声明の流布に伴う混乱のことである。そして、種々な交渉が終了した数日後、非難の言葉が上記のようなレベルにまで至ったことにより、両当事者の信頼性が打撃を受けるであろうことは疑うべくもない。両当事者の合同は、脆弱な諸般の一致点に依存している。
しかしながら、これらのこと全てが堅固な事実と、日々その堅さを増していく事実全体を無にするわけではない。これらの事実の一つは、シリア革命は単一の勢力や野党の計画で始まったものではなかったし、「委員会」からも「評議会」からも許可を得て始まったものでもない、という事実である。反体制勢力全てが、起きていることの深みや根底、その拡大を意識する前に、すでにシリア人たちは通りに出て、独裁政権打倒という彼らの決意を表明していた。またシリアの世論は、新旧両方のあらゆる指導者に先行して遠い段階へ進んでおり、さらに我々が目にしている限り、依然として世論のほうが(反体制派の)指導部に先行し続けている。我々が目にしているものとは、例えばデモ参加者達の活動、スローガン、要求、そして彼らの芸術的なプラカード、音楽や小説における活動などの面である。
自然発生的な始まりには、合理化が必要だと述べるのは健全な意見である。つまり、権力の移譲や変革の運営に関して計画を建てる人間が必要だし、変革が過度な暴力や宗派主義の危険に陥るのを防ぐことが必要とされるのだ。また、調整委員会と国民評議会の相違点である、外国からの干渉という問題は、現時点では余計なことで無意味である。現時点では、陸上であれ、航空であれ、外国による軍事行動が起きる真剣な可能性は存在しないように思われる。しかしながら、このような障害が革命を殲滅し、革命を葬り去ることはないだろう。体制とその支持者は、反体制派間の相違を反体制派に対する広報活動で利用するだろうが、革命そのものがつぶされることはないだろう。
別の表現を用いるなら、シリア革命は進み続け、反体制派の無能や、「外国の干渉を容認するか否か」や「シリア国内の反体制派と国外の反体制派」といった類の形式的な対立や、このコラムで二分法的に分類したことを克服するだろう。二分法的分類は、シリア人の流血を止めるという任務の前には無意味で価値のないことである。革命こそが、その胎内から指導部、計画、幹部を生み出すのであって、カイロやその他の諸会合からそれらが生み出されるのではない。こうした選択は手間がかかり、ゆっくり進むだろうが、不効率と衰弱-この二つが様々な部分からなる反体制派の幻想と、反体制派の政治・広報上の実効性と能力を支配しているのだが-との対決の中で、罠からの出口が見つかると思われる。罠とは、シリアの反体制派が陥っている、抗議・反対する世論から生じるものではないものに依拠するという罠のことである。
おそらく、この見解は諸般の革命「作り」教本と矛盾している。教本とは、反体制勢力の一部が、数十年来これに依拠しているもので、この見解は革命的理論とか、計画とか、革命的中核とかに反するので、この教本に反する。しかしながら、現在もっともらしいことは、この種の議論をやめて、数百万のシリア人の声に耳を傾けることだ。数百万のシリア人とは、「自由の広場へ進撃する金曜日」でデモをした人々である。そして、人民の爆発を利用することである。一方、これに対し体制は完全な破産状態にある。体制は、歴史的変革を成し遂げる上で完全に破綻している。歴史的変革とは、シリア人が望む変革のことである。
この呼びかけは、宗教、あるいは宗派といういかなる方向性にも帰着しない。声の持ち主たちの声は、一部衛星放送を通じて増幅されるのではない。衛星放送は、大きな選択肢の一方についたのである。選択肢とは、最初から最後までシリア人民が選択したそれである。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:丸橋遼太 )
( 記事ID:25051 )