訃報:ハージー・バフシー、天に召される
2012年01月04日付 Jam-e Jam 紙


【政治部:マルヤム・ジャムシーディー】旗を手に持ち、例のもじゃもじゃの白い顎鬚を蓄えた男性のイメージは、私の幼少期から変わらない。彼の名前は〔イラクの侵略に対する〕防衛の日々と〔対イラク〕戦線、そして数々の塹壕〔のイメージ〕と結びついている。彼は「強要された戦争」〔=イラン・イラク戦争〕終結後も、鉢巻きを解くことはなかった。彼は、西洋諸国の抑圧的性格を断罪するために開かれた様々な集会にも、いの一番に駆けつけたのであった。

 彼の名はハージ・ザビーホッラー・バフシー。しかし多くの人から、彼はハージー・バフシーの名で知られている。イラン暦1312年〔西暦1933/34年〕生まれの彼は、第二次世界大戦で負傷し、彼の父親も連合国軍によって殺害されている。

 にも拘わらず、〔サッダーム・フセインが率いるイラクの〕バアス党政権の軍によって我が国に対して戦争が仕掛けられると、彼は中年期にいることを言い訳にして都会暮らしを選び、戦闘の最前線から離れたところに安住しようとはしなかった。彼は、〔激戦が繰り広げられている〕塹壕へと向かったのだ。しかし戦争が終わった頃、彼は自身の息子2人と娘婿1人を、〔シーア派のイマームたちが眠る〕かの聖地に置き去りにしてしまう〔=イラクで亡くしてしまう〕。

 彼の戦線での士気は極めて高いものだった。そのため、ある時負傷し、殉教の噂が流れると、戦友たちは暫くの間、士気を失ってしまうほどだった。取り分けラジオ・バグダードは、ハージー・バフシーの訃報を喜々として報じた。しかし、ハージー・バフシーは回復するや、戦線に復帰し、声高にこう宣言したのであった。「サッダームは、私が死んだとの噂を流した。奴にこう言ってやろうと、私は帰って来たのだ。『お前を道連れにするために、私はあの世からやって来た!』、と」。

 ハージー・バフシーの栄誉はすべて、「聖なる防衛」〔=イラン・イラク戦争〕の日々と、その後における彼の活動によるものであった。例えばホワイトハウスがイランに対する言葉での威嚇を激化させ、ブッシュ政権がイランへの軍事攻撃の可能性を否定しなかった時も、ハージー・バフシーは再び旗を手に取り、額に鉢巻きを締めて、次のように叫んだのであった。「ブッシュさんにこのことを思い知らせてやれ。‥‥もし攻撃されたなら、我々も彼らを陸から、空から攻撃してやる、ということを。自身の体に爆弾を巻き付ける用意のある人間、高速艇に乗ってアメリカの艦船に体当たりする覚悟のできている義勇兵は、私を含めて2千万人もいるということを」。

 しばらく前に脳卒中を患い、昏睡状態に入ったハージー・バフシーはいま、この世に別れを告げ、殉教した戦友達のもとへ逝ってしまった。神の慈悲のもとに安らかにあるだろう。

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( 翻訳者:8408172 )
( 記事ID:25126 )