北キプロス・トルコ共和国建国時の大統領ラウフ・デンクタシュ、死去
2012年01月14日付 Radikal 紙


北キプロス・トルコ共和国創設者のラウフ・デンクタシュ元大統領が昨晩近東大学付属病院集中治療室で息を引き取った。キプロスの反政府組織だった「トルコ抵抗組織」でトロスという名で知られたデンクタシュ元大統領は、1983年から2005年の間、大統領を務めていた。

近東(ヤクンドー)大学付属病院集中治療室で1月9日日曜日から厚い手当てを受けていた北キプロス・トルコ共和国創設者のラウフ・デンクタシュ元大統領が逝去した。


デンクタシュ元大統領は1月8日夜、下痢に伴う脱水症状が理由で病院に搬送された。前日から内臓器官の調子が悪かったデンクタシュ元大統領は、昨日の朝呼吸機器につながれ、晩には人工透析が行われた。

デンクタシュ元大統領が危篤との報道が流れると、デルヴィシュ・エルオール大統領、イルセン・キュチュク首相、キプロス・トルコ平和軍アデム・フドゥティ司令官、北キプロス・トルコ共和国自衛軍メフメト・ダイサル総司令官と何人かの大臣、そして市民たちが病院へ駆けつけた。近東大学付属病院運営委会のアフメト・サヴァシャン氏は、デンクタシュ元大統領の健康状態を説明し、「大変危機的状況に状況にある」と話していた。状態がさらに悪化したデンクタシュ元大統領は、懸命の治療にもかからわず、昨晩10時に息を引き取った。

■「国民の喪」を宣言

ラウフ・デンクタシュ元大統領の死後、北キプロス・トルコ共和国は喪に服している。反旗がかかげられている。デンクタシュ元大統領の葬式の詳細も明らかになっている。公式の葬式は月曜日に病院で始められる予定。火曜日にはデンクタシュ元大統領の遺体は、遺族の希望に沿った場所に埋葬される。トルコでも、「国民の喪」が宣言された。

■闘い続けた壮大な人生

1924年1月27日にキプロス島のバフ町にて、裁判官のメフメト・ライフ氏と母エミネさんの間に末っ子として生まれたラウフ・デンクタシュ氏は、自身の人生をキプロスに捧げた人物である。北キプロス・トルコ共和国初代の大統領に選任されることになるデンクタシュ氏は、1941年にレフコシャ英国学校を卒業した。その後、英国評議会の奨学金を受け、1944年にイギリスで法律の勉強を始めた。

1947年にリンカーン法曹院を優秀な成績で卒業したデンクタシュ元大統領は、同年キプロスに戻り弁護士として働き始めた。1942年には雑誌『国民の声』でアクン・ユルマズというペンネームで執筆を始めた。1948年には当時のキプロスの知事が創設した憲法評議会の委員として働く。その後、トルコ問題委員会でも職についた。検察庁にトルコ人の検察官がいなかったため、1949年に弁護士会から離れ、検察官補佐を務めた。1954年に検察官に昇格した。

1957年末、キプロスをギリシャに併合させるというイギリスの意向に気がついたデンクタシュ氏は検察官を辞任した。1958年にEOKAがキプロスのギリシャへの統合をめざしキプロス・ギリシャ私兵団を編成すると、それに対抗するため「トルコ反抗組織」を作り、キプロス・トルコ組織連合の会長に選任された。キプロス共和国の建国を決めたチューリヒ協定にトルコ人の権利と地位を明確に示す条項が加えられこと、トルコ・キプロス連合によりトルコによる(トルコ系住民)保護が強化されるという動きについて、デンクタシュ氏は重要な役わりを演じた。この2つの協定によると、キプロス共和国の大統領はギリシャ人、副大統領はトルコ人、大臣のうち7人はギリシャ人、3人はトルコ人と規定された。しかしことは計画どおりには進まなかった。

1959年から1963年の間、キプロスからトルコ政府に送られた報告書は将来起こりうる危険について言及していた。キプロスで起こったダイナマイトのような衝突は、1963年12月4日にレフコシェのEOKAの活動家マルコス・ドラゴスの像にしかけられた爆弾によってはじまった。EOKAは爆弾はトルコ人が仕掛けたと主張した。その後トルコ人2人が殺され、事態は収拾がつかなくなった。トルコ軍ジェット機はキプロス領空を飛んだ。1963年の「血のクリスマス」事件の後、デンクタシュ氏はアンカラへ向かった。折衝を完了したデンクタシュ氏は小船でキプロスに戻り、トルコ系抵抗組織を組織し始めた。また、1964年1月にロンドンで開催された「五者会談」に出席し、キプロスのトルコ人の主張を展開した。1964年には、トルコ人コミュニティーを代表し、国連安全保障委員会で演説した。この日より、マカリオス政府側から「不適切人物」と宣言され、キプロスへの入国を禁じられた。1967年にはキプロスに密入国したことで逮捕されている。トルコからの強い抗議の結果、トルコへ送還された。1968年に入国禁止が解除され、キプロスに戻った。

1973年2月16日、再びキプロスのトルコ人コミュニティーの代表に選ばれた。1973年2月28日には、キプロス副大統領、そしてキプロス・トルコ政府代表として職務を遂行する。1974年トルコのキプロス侵攻(Türk Barış Harekâtı)がはじまった。1975年2月13日にマカリオス3世がキプロスに戻ると、マカリオス3世(政府)の合法性の喪失を確定するため、別の政府を立てることをデンクタシュ氏は提案するが、これは当時のウルマク政権に承認されなかった。トルコが北キプロスに軍隊を送り込んだ後、デンクタシュ氏は国民統一党(Ulusal Birlik Partisi)を立ち上げる。1975年、北キプロスに国際社会の承認を得られないままキプロス・トルコ連邦政府が建国すると、首相に選任された。連邦政府憲法にもとづき1976年6月20日に行われた第1回総選挙にて過半数の票を得て、首相に選任され、1981年までこの職を続ける。キプロス・トルコ連邦は1983年11月15日に再び国際社会により承認されないまま、北キプロス・トルコ共和国と政体をかえた。

大統領に選任されたデンクタシュ元大統領は、1990年、1995年、2000年にこの職に再び選ばれた。たデンクタシュ元大統領は2005年4月17日に行われた大統領選挙で立候補せず、同年4月24日、その職をメフメト・アリ・タラト現大統領に譲った。

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( 翻訳者:松永拓人 )
( 記事ID:25202 )