女性が男性に従わなくなると、ナームスに関わる犯罪が増えている
2012年01月15日付 Milliyet 紙

ナームスの概念について本を著したネヴィン・ユルドゥズ・タヒンジオール氏の発言:「教育を受け、仕事を持つ女性が男性の束縛に「ストップ」をかけ始めた。男性は自分たちのまったく知らない状況に狼狽え怒り、さらに暴力を振るうようになった。」

毎月何度か『ナームス(貞操)の欠如』のために殺害される女性、「私を守ってください、でないと元夫に殺される」と訴えたにも関わらず、我々がなかなか守れなかった女性についてのニュースは、皆さんの心を痛めていることでしょう。
時事を大きく独占するこの問題が何を根源とするものなのかは明らかになっておらず、学者たちは今、この欠陥をうめようとしている。「ナームスとは何か?我が国でどれほどの影響力を持つのか?どの階層でどれほどの女性が殺害されたのか?男性はどのような状況にあるのか?彼らは『男らしさ』を証明するためにどれほどの苦しみを味わっているのか?」といった問いの答えを知ることができる新著がある。セルチュク大学コミュニケーション学部の教員であるA・ネヴィン・ユルドゥズ・タヒンジオール氏の著書『ナームスの状態』が、ポスティガ出版から刊行された。著書は、ナームスの社会における影響をさまざまな角度からで見ている。

(以下インタビュー)
― 一人の女性として、あなたにもナームスの概念と衝突する時はありましたか?

 高校で最も親しかった私の友人は、成績が悪いことと学校の風紀を乱したことを理由に退学処分になりました。風紀を乱したというのは、彼女が『自由に振る舞った』からでした。彼女は恋人と、学校の売店の真ん中でケンカをしたり、仲よく手を繋いだりしていました。町には他に高校がなかったので学生を続けられませんでした。どの階層においても、ナームスは私たちの日々の生活に溢れています。ナームスは、私たちが何を着るかということから、どのように振る舞うか、異性とのコミュニケーションはどこまでが許されるかということまで、事細かに定めるものです。

―著書にはナームスによって苦痛を味わった多くの女性の話がありますが、執筆中は何を感じましたか。

本には、15歳で「(兄・姉の)結婚式に行くから着替えなさい」と言われ、騙されて相手方の兄弟と交換結婚をさせられた女の子、教育を受け、職業を持っているにもかかわらず暴力を受けた女性、着ていた下着が原因で夫に殴られた女性、(勝手に)通りに出たといって刺された女性、離婚したために我が子と会うことも禁じられた女性たちの物語があります。私はこれを書いているとき、一人の女性として孤独や恐怖、時には抑えられないほどの怒りを感じました。

―統計を見ると、ナームスに起因する殺人の増加も問題ですね?

 ナームス関連の殺人は減っておらず、反対に増加しています。また、推測とは反対に、この殺人は都市郊外だけで行われるものではありません。教育レベルが高い場所でも多いのです。私の考えでは、この主な理由は女性がもはや従うことを受け入れなくなったためです。教育を受け働いている女性は男性の束縛に「ストップ」をかけ始めました。男性は「どうしたというのだ。おまえはおれの妻だったじゃないか」と言っています。つまり彼らは自分たちのまったく知らない状況に狼狽え怒り、さらに暴力を振るうようになったのです。ミュネッヴェル・カラブルトさんと、アイシェ・パシャルさんの2人の殺害事件では、犯人の男性はそれぞれ異なる階層出身でした。しかし彼らが2人とも、ナームスの概念を根拠として、刑罰の軽減を望んでいるという現実があります。

―あなたはトルコ刑法がナームス殺人を見えない形で擁護していると思いますか?

2005年に執行された新しいトルコ刑法は、情状酌量による減刑をナームス殺人だけに限定しました。一族の決定により実行された女性の殺害は因習殺人であり、男性が自らの意思で女性を殺害することだけがナームス殺人だとされます。つまりナームス殺人は、執着、愛、妬みのような「人間の感情」によって正当化されたのです。嫉妬する男性に妻を殺害する権利が与えられたのです。一方では、「後進的な慣習を持つ人々」が犯すナームス関連の犯罪は、政治や法律に背く罪とされます。しかしながら、両者とも女性の殺害であり、両者とも結果は同じで、両者とも目的は女性の自由意思をナームスのもとに踏みにじることなのです。

―「合法の暴力」という概念もありますね。著書では頻繁に出てくるこの概念をもう少し詳しく説明してくださいませんか。

ナームス殺人と同様、強姦も合法の暴力の一種です。N.Ç.事件はこのことを私たちに再度知らしめました。未成年の少女が数十人の成人男性から暴行を受けたという状況であってさえ、暴行者らの犯した罪ではなく、少女の道徳性が問われたことが合法の暴力です。N.Ç.さんが「身持ちが悪かった」ために公正な判決を受けられなかったことが合法の暴力です。つまり、犯罪者が被害者にすり変わってしまうことなのです。

―この本が何を変えると思われますか?

ナームスの概念を覆っている霧のカーテンを開けることでしょう。女性は今日、古代ローマ時代の考えである「ホモ・サケル(聖なる人間)として扱われています。これは、その者が社会に対して犯した罪のために、殺害されても殺害者が罪に問われない者(世俗の法の外にある者)という意味です。たとえばこの時代、夫を欺く妻が親戚から殺されることは罪ではありませんでした。苦しい真実に人々がもう少し向き合うため、そして女性が「殺されても問題ない」とされる立場から解放されるために私は闘っているのです。

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( 翻訳者:倉田杏実 )
( 記事ID:25213 )