ディンク殺人5周年、イスタンブルで大集会―数万人参加
2012年01月19日付 Hurriyet 紙
フラント・ディンク裁判の判決が出た後、今日「フラントの友人」の呼び掛けによりタクスィム広場からアゴス新聞社の前までデモ行進が行われた。このデモ行進には数千人の人が参加した。
2007年1月19日に殺害されたアゴス新聞編集主幹フラント・ディンク氏の友人や知識人らがディンクの死亡5周年に無言のデモ行進を呼びかけた。デモ行進は、午後1時にタクスィム広場で始まりアゴス新聞社の前まで続いた。
何千もの人が参加したデモ行進の呼びかけを行った「フラントの友人」は、呼びかけの中でこのように記した。
「フラント・ディンクを亡くした日から今日で5年が経ちました。5年前イスタンブルの通りには何十万もの人が溢れかえり、何百万人もの人が泣いて見送りました。私たちは、5年目にその大きな団結と、その無言の叫びと、大きな意味を持つ民主主義的解決を繰り返えしたいと思います。5年間、殺人犯の裁判の過程を、みな怒り、反発し、見てきました。私たちの前には何人か、銃撃者が差し出され、これで満足せよ、といわれました。
だからこそ、2012年1月19日木曜日、フラント・ディンクを可能な限りの大衆の行進によって追悼することはより意味をもったのです。タクスィム広場のエルマダー側のところで集まります、そしてアゴス新聞社の前まで歩きます。スローガンは叫びまません。団体のプラカードや旗もありません。この無言こそが叫びなのです。」
■エル・セヴァグの家族も歩いた
バトマンで軍務中に、流れ弾にあたり死亡したと伝えられた軍警察のセヴァグ・シャーヒン・バルクチュさんの家族もデモ行進に参加した。
■アゴス新聞社の前で黙祷
デモ行進の終わるアゴス新聞社の前で安全措置が取られた。ディンク氏が打たれた場所にカーネーションが置かれ、新聞社の建物には「5年でなく95年過ぎても、この裁判はこのように形では終わらない」と書かれたポスターが吊るされた。
何千人もの人は午後3時に新聞社前で1分の黙祷を行った。
■カラカシュル氏「私たち、皆が目撃者だ」
新聞記者兼作家のカリン・カラカシュル氏は、黙祷のあとアゴス新聞社の窓からスピーチした。スピーチでは次のように話した。
「1月19日は追悼の日ではありません。1度もあったためしがありません。ただただ、みな、その日を悲しんだけです。1月23日になり「トルコ人の敵」といわれるアルメニア人の新聞記者の葬儀は皆を集結させました。真昼間にこの通りで彼は背中を撃たれ、私たち皆が目撃者なのです。」
ラケル・ディンク氏が新聞が窓から民衆に挨拶したあと、行事は終わった。
■平和民主党(BDP)のオンデル議員「上訴は何の意味ももたない」
デモ行進に参加した平和民主党(BDP)スッル・スュレイヤ・オンデル議員は、ディンク裁判の判決を次のような形で批判した。
「政府は、民主的権利を擁護するために集まってきた学生から、自然・オオカミ・鳥を守ろうとする環境派までのいろいろの人々を、ひとつの組織の袋に入れようとしている。しかし、この政府が、表と裏の全ての組織を動員して行った殺人は、逆に犯罪組織の存在を示すものとなった。
政府は『これは司法のしたことだ』と言い、自分たちを蚊帳の外におくことはできない。なぜなら、捜査の許可が政府に求められたとき、国家諜報組織のメンバーに対する捜査を政府は認めませんでした。「これ」は力のバランスの、「これ」は不当の一部分です。「これ」と私が呼んだものから、「犯罪組織」をくくり出す政府が(注)、今回、ここから「組織」をもちだしてこれないとすると、これはただ一つのことを意味します。殺害は政府が企てたのです、政府が殺人犯なのです。今後の上訴過程で話されることはもう全く大事ではありません。このことは、国民の良心に刻み込まれたでしょう。上訴は全く意味ももたないのです。」
[訳者注]政府(または政府与党)が、国家の裏の組織、裏の機構としてエルゲネコン組織を追及していることをさしている。
■地下鉄オスマンベイ駅の出入口閉鎖
警察は午後12時から15時まで地下鉄オスマンベイ駅の出口と入口を閉鎖した。
■5年にわたる裁判は前日終了した
フラント・ディンク氏は2007年1月19日アゴス新聞社の前で撃たれ命を失った。事件後開かれた裁判の判決は先日下された。判決では、容疑者のヤシン・ハヤルが加重化された終身刑で重罪刑務所に送られ、エルハン・トゥンジェルは無罪とされた。少年裁判所で裁判が行われたオギュン・サマトは22年10か月刑務所で過ごすことになった。
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( 翻訳者:畔上曜子 )
( 記事ID:25267 )