ピアニスト・ファズル・サイ、映画「征服1453」批判
2012年02月20日付 Radikal 紙


有名ピアニスト、ファズル・サイ氏が、先週木曜日14時53分に公開された映画「征服1453」の音楽担当をなぜやめたのかを、書き記し説明している。
ミッリイェト紙の報道によると、映画に関連する報道でまだ音楽を自分が作ったと書かれていることを不愉快に思っていると述べたサイ氏は、この点でプロデューサーに注意を促したと述べた。そしてプロジェクトからなぜ外れたのかに関して、以下のように説明した。

この映画の音楽を私が担当することが話し合われ、「イスタンブル交響曲1453(第一章ノスタルジー)」のサンプルを使おうと思っていました。映画の大まかな部分を見てから決めると私は言い、それを見たあとこの壮大なプロジェクトから私は手を引きました。理由は以下の通りです。
予算が1700万ドルでも1億1700万ドルでも、関係ありません。結局、人々は良い映画と出会ったとき、幸せを感じます…良い映画とは、思うに、単に一つの社会のためだけではなく、いろいろな社会の、全ての人々の心で「良い」となったら役目を果たすことになるのです。いいですか、「ビザンツ嫌い」のイデオロギーは、トルコ人社会のみが喜んで受け入れたのです。カプクレ(訳注:トルコとブルガリアの国境の町)を越えるや、すぐに「ビザンツ嫌い」という考え方がないことがわかるでしょう。この映画は、他の社会では残念ながら問題をおこすでしょう。

私達はトルコ人の勇猛さばかりをたたえています。征服は、メフメト2世の独創的で天才的な発想で持って行われました。独創性と天才がなんであるのかトルコ人社会はまだ理解できていません。アタテュルクを理解できないように。
トルコ人だけが喜ぶことになるのに、どうしてそんな映画を他の人々にみてもらえるというのでしょうか。目的は、「我々西欧人、つまりイスラム教徒でないものは、偉大であることはありえないらしい。(偉大であるには)トルコ人であることが必要なのだ」とでもいわせたいのでしょうか?目的は何なのでしょう?ある映画に芸術性がないならば、目新しさと革新性がないならば、映画がヒューマニズム的考えに立って異なる視点で問い合うものでないならば、なんでもかんでもキリスト教の問題だというなら、他の国で、この映画は、価値あると思われるでしょうか?理解できませんでした。

理解できなかったので、私はこの仕事から手を引きました。いい仕事ができると思ったのですが・・。私は去年60分〜70分のこの映画(の一部分)を観ましたが、完成したものは観ていません。ごめんなさい。音楽をだれが担当したのか知りません。」

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( 翻訳者:門野淑香 )
( 記事ID:25622 )