Abbas Güçlüコラム:義務教育12年化の問題点
2012年02月21日付 Milliyet 紙
(1997年に)基礎教育を8年に延長したことは完全なる無鉄砲であった。国民教育会議の決定が実行に移されるまでに20年はかかっていたのに・・。ちょうど(20年前の義務教育8年化の)決定が実施に移されようとしていたときに、(小学校5年、中学校3年という)断続的な教育か、(8年間の初等教育)一貫教育かという議論が始まった。(1997年の)「2月28日過程」事件の成り行きで一貫教育が採択され、一夜のうちに数千校もの農村の学校が閉校になった。しかし、我々は人里離れた奥地まで学校を普及させようと80年間尽力してきていたのに!..今再び180度転換している。基礎教育の期間よりむしろ、それが断続的であるべきか、それとも一貫的であるべきかということが議論されている。「2月28日過程」では、一貫教育が望まれ、一貫教育となった。一方、現在の政権は、断続的な教育システムを望んでいるが、恐らく一貫教育となるであろう!
[訳者注:トルコの教育システムにおける一貫性か断続化の議論は、イマーム・ハティーブ養成校と呼ばれる宗教系学校への入学をどの段階から認めるか(中学校レベルから認めるか、高校レベルから認めるか)という議論を意味している。初等教育を一貫制とした場合には、高校レベルからとなり、「断続型」とした場合は、中学レベルからの宗教系教育が可能になる。]
さて、8年間基礎教育の総括は行われたのであろうか?その功罪が検討されたことはあったのか?何よりも先ず就学率100%は達成されたのか?..
これら全てをすることなしに再び闇雲に12年間基礎教育へシフトすることは無鉄砲以外の何ものでもない。もし合理的に動いていたら、まず第一に就学前教育が義務教育の枠組みに加えられたであろう。なぜなら、教育段階の中で最も重要な段階は、就学前の期間だからである。学習意欲や人格形成が芽生えるのも衰えるのもその時期である。これを実行せずに義務教育を12年延ばそうが、延ばすまいが同じである!
■ インフラは万全か?
8年間基礎教育への移行における最大の失敗の一つは、ハードインフラを考慮入れなかった事だ。農村学校は閉校になり、遠距離通学教育及び寄宿制地域学校制度へと移行となったが、結果は言わば、惨憺たるものだった。現在でもハードインフラは深刻な問題である。全構造が8年間一貫教育に基づき構築されている事から4+4+4制はどの物理的環境で実現するのだろうか?農村学校が再開されるのだろうか?あるいは学校が二分されるのだろうか?さらに重要なことだが、この制度はどれだけ存続するだろうか?..
■ 試験的な運用が必須
公正発展党が教育へ関心をもつことは悪いことではない。せっかくこうやって関心をもっているのなら、同党が教育の他の基本的な問題を対象とした法案も作成すれば、申し分ないのだが。例えば、入学試験、失業、大学再編、外国語、教員養成、全日制教育、そして、基礎教育の問題に取り組むべきだ。要するに、どうして学校にいるはずの子供たちが路上にいるのだろうか?..
公正発展党が教育に関心を抱く事に対し一部の者は反対し、彼らは隠れ縄張りを築く野望のシナリオを書き、それを持論とすることもあろう。しかし、私の眼には、同党が教育政策をもっているということは、政府も教育政策をもっているという風に映る。
10年間にわたる公正発展党政権期に閣僚4名が交代した。4人とも他の閣僚が行ったことは無視し、全てを白紙に戻し再出発した。もし、真摯な政党政治が存在していればこんなことにはならなかったはずだろうし、また10年間で経済、保健、交通、外交やさらに多くの分野同様に進歩があったであろうに...
■ 決意は示されるのだろうか?
国民教育省は次々にプロジェクトを生み出している。そして各プロジェクトは、一閣僚の閣僚任期に収まらないほど包括的である。さらに重要なのは、提案された各々の新プロジェクトは、他のプロジェクトの成功率を低下させるという事だ。なぜなら注意散漫が発生するし、優先順位が常に変化してしまうからだ。例えば、国民教育省が今年優先するプロジェクトはどれになるのか?FATİH(機会拡大・技術推進運動)計画か、12年間基礎教育か、服装の自由化か、国民の祝日か、教育カリキュラムか、職業教育再編か、あるいは教員養成制度の再編か?
この中で一つだけでも真摯に検討し、それが実を結ぶことになれば、その担当閣僚は歴史に名を刻むことになるだろう。しかし、毎回就任する閣僚は我々を「プロジェクト・バカ」にし、我々を当惑させる以外何の役にも立たない...
しかし提案されたプロジェクトは全て大変重要である。全プロジェクトが成果を挙げ、失われた時間を埋め合わせることができればよいのだが。だが、大変困難なことである。これはディンチェル国民教育相や政権とは無関係である。国民教育省は疲弊しきっているのだ。しかも、現在、未だかつてないほど意気消沈している。だからどれだけ善意、政治的支援、誠意ある努力があれども、サプライズを期待せざるを得ないだろう...
国民教育省はもはや変わるべきであると最も求めているのは私たちだ。しかし、殊のほか落胆してしまったので、我々は今後、慎重に慎重を期することにする。各プロジェクトへの際限なき支援とプロジェクト成功者に我々は心から喝采を送る用意ができている...
総括:どうか教育に幸あらんことを!..
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( 翻訳者:藤井庸平 )
( 記事ID:25637 )