ヴァン総督タフシン・パシャから、スルタン・レシャト・ハーン(メフメト5世)に宛てた書簡で、ヌールスィーの教育計画が明らかとなった。
偉大なイスラム知識人であるベディユッザマン(訳注:ヌールスィーのあだ名)・サイード・ヌールスィーの死から52年が過ぎた。しかし、彼の先見性ある思想の必要性は日に日に増している。
ベディユッザマンの没後52年目にオスマン文書の中から発見された文書によると、ヌールスィーの、東方解放の処方箋としてヴァンで設備を整えた学校を開校する計画という考えは、国によっても広く認められていた。ヴァン総督であったタフシン・パシャは、スルタン・レシャト・ハーン(メフメト5世)に宛てた書簡において、「何百年も眠っている祖国のこの広い大地を起こす唯一の方法は教育でございます。これはただ宗教教育によってのみ可能なのです」と述べている。タフシン・パシャは州都で宗教教育と科学を一緒に学ばせる大学という形式で学校を開く必要性を述べ、必要な資金のためスルタンからの寄付を求めている。この文書をオスマン文書の中から発見した歴史学者のラマザン・バルジュ博士は、ヌールスィーが独立戦争の頃にも大学開校の請求を議会に送っていたことを指摘する。バルジュ博士は、ベディユッザマンがトルコ大国民議会で行った演説について以下のように紹介した。「大学開校を開校しなければ、トルコ人ではないムスリム達はトルコ人に真の兄弟愛を感じられなくなるでしょう。いま、これ程の敵に対抗するため、相互扶助や連帯を我々は必要としているのです。」
バルジュ博士は、ヌールスィーが「メドレセトュッズゼフラ」という名前をつけた大学について、「おお、300年後に来たる者達よ!その城の頂に光の学校という花を咲かせなさい。肉体は蘇らないかもしれないが、霊的に不朽無辺で、広い形で存続するメドレセトュッゼフラを物質的な方法で築くのです」との遺言を紹介した。(博士によれば)ヌールスィーはメドレセトュッゼフラの教育言語は、トルコ語、クルド語、そしてアラビア語であるべきと考えていた。こうすることがヴァン地方を生き延びさせるというベディユッザマンの思想と、「クルド人達に対し、将来恐るべき打撃が加えられる準備が整えられており、私の胸は張り裂かれる」というベディユッザマンの悲痛な思いについて語った。
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( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:25900 )