メルスィン・アククユ原発予定地、36年の倦怠
2012年04月01日付 Radikal 紙


36年の間原発設置について話してきたビュユケジェリ町では畜産業が終わってしまい、農業は外部の人間に委ねられている。そして、村に残る人たちには「原発疲れ」がある!

木曜日(3月29日)、メルスィン郡ギュルナル地域に属するビュユケジェリ町で、アククユ原発環境影響評価報告(ÇED)市民参加集会が行われたが、抗議者が出たため途中で終了となった。現状は環境保護論者から見てまず勝利のように思われたとしても、実際の状況はまったく逆をいっている。なぜならすでに原発反対派ではなく賛成派の声がより大きいからである。ビュユケジェリ町民は、一時期人口の86%が原発に反対であったが、大量の人口流出と貧困、孤独により、もはや原発に反対しようという気概を持たない。

ビュユケジェリ町は、メルシン郡ギュルナル地域に属する海辺の町である。街をこのように重要にしたのはすぐ近くにあるアククユ・コユで建設が計画されているトルコで最初の原子力発電所(NGS)である。町民は36年も原発議論の中で生活してきた。数値によれば1990年には1986人だった人口が2011年には1235人に落ちている。以前は楽園であったビュユケジェリ町だが、もはや土地は近隣の町から来る者が耕しており、畜産業もすべて放棄された状態にある。

■3つに分かれる町

ビュユケジェリ町に住む1235人は現在三派に分かれてしまっている状況である。原発反対派、原発賛成派、そして疲弊した人々に分類することができるだろう。これまでの36年間を要約するならば、原発反対派者数の減少の理由の最たるものに失業があげられる。公正発展党が原発設置を断固と貫いていることも原因であるし、町の原発反対派として票を集めた町長らが後に原発賛成派に回った事も見逃せない。
ÇED集会にはトルコ全土からバス3台分の原発反対運動家が加わったが、住民で原発反対派である弁護士のエフカン・ボラチュ氏は「もっとも大きな原発反対デモはイスタンブルで行われた。そこでさえ3,4千人が参加した」と述べる。

原子力発電所建設に、おそらく初めてこれほど近く関わると話すボラチュ弁護士は、「この人々は自分たちの土地のために自覚する必要がある。しかし残念ながらこのように意識がない」と加えた。

メルスィン原発反対討論会の当期スポークマン、サバハト・アルスラン氏は、「原発反対だった町長2人もいまや原発賛成派だ。投票者は、彼らが原発反対派であるから票を投じ、選出したのに、何も変わらない、(選挙に)何の意味も見出せない」と述べた。

■どこからどこへ?

ビュユケジェリ町のメフメト・カレ町長は2009年に「私たちの町に原発は要らない。観光のために投資はして欲しい。公正発展党政府はここで住む人々のことを見て見ぬ振りをしている」と述べていたが、今では「政府が『これは国家事業である』と言ったなら、これに我々も貢献すべきである」と言っている。

■反対して、どうなった?

畑で出会ったアイシェ・テクさんはすでに議論に疲れていた。「息子たちと私たちは先頭に立って反対活動をした。それで、どうなったの?私は反対派だった。でも、もう信念をなくしてしまった。今の政府は意見を変えようとはしない。」

■土地は収入をもたらさず、反対運動は効果がない・・・

ビュユケジェリ町で反対派であると言う人でさえ、何も行われないだろうと考えている。原発賛成派は・・・彼らも一時期反対キャンプにいた事を隠さない。オートバイ修理工のファフリ・テクさんも反発を交えながらこう語った。「以前は私は反対派だった。今は賛成派だ。我々がここで「いやだ」とデモをしたが、君は傍にいなかった。誰もいなかった。自分たちだけで戦っていたのだ!」

82歳のメフメト・ドアンさんが原発によって孫が職につけると希望を持つ一方で、30キロ離れたアイドゥンジュク郡から耕作のためにこの地に来る農家のヌマン・ギョクギョズさんとその友人たちは、原発賛成派に悩まされているが、自分たちの意見を聞いてくれる人はいないと考えている。「誰が原発の地のトマトを食べたいと思うか?」と言うギョクギョズさんは、地域の住民が皆、職を失ってしまうと言う。ギョクギョズさんは、「ここには観光業がある。観光客はもっとお金になる」と述べた。

ギョクギョズさんと同じ地域で働くムスタファ・ウチャルさんは農業が終わってしまうと主張する。「2000年に1エーカーで70億リラ得ていた。今も同じだ・・・近いうちこの仕事をやめなければならなくなる」

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:藤井彩香 )
( 記事ID:25954 )