ギリシャ人ジャーナリスト「さあ、イスタンブルに戻ろう」
2012年04月08日付 Hurriyet 紙
「去りし人々のイスタンブル」という名の直筆本が英語からギリシャ語に翻訳されたギリシャ人ジャーナリストのアレキサンドロス・マッセヴェタス氏は、ヒュッリイェト紙のインタビューに答えてくれた。マッセヴェタス氏は、親世代がトルコからギリシャに移住したルーム(トルコの元ギリシャ系住民)らに、イスタンブルへ戻るよう呼びかけている。
マッセヴェタス氏は次のように話した。「もはやトルコ社会は、ルームたちが去ったことをイスタンブルにとっての「喪失」であるとみなしている。家族がギリシャへ渡ってきたルームの若者たちへ、『家族たちのいうことに耳を傾けるな。彼らは今日のイスタンブルを知らない。イスタンブルに戻りなさい』と言っています」。
9年間イスタンブルで暮らし、続けてイスタンブルに関する二冊目の本を執筆中であるギリシャ人のアレキサンドロス・マッサヴェタス氏は、両親がトルコから移住してきたルームたちに、「トルコは変わった。家族の言うことに耳を傾けず、戻ってきなさい。これはあなたにとっても、またイスタンブルにとっても良いことである」と呼びかけている。
マッサヴェタス氏は2010年に英語で書いた「去りし人々のイスタンブル」という本の中で、ルーム、アルメニア人、ユダヤ人、レバント人、ロシア人といったマイノリティを追跡し、イスタンブルのもつコスモポリタン的構造を研究している。本はギリシャ語に翻訳された。マッサヴェタス氏は、本がトルコ語にも翻訳されることを強く望んでいる。続いて、「フェネル、バラト、アイヴァンサライ」をテーマとした2冊目の本を執筆中である。
-あなたがイスタンブルに住んでいることに対し、家族は何といいましたか。
母は喜んでいたとはいえません。親戚や友人たちからは「気ちがいか」とも言われました。イスタンブルへ渡ったとき、トルコはまだ2001年危機を乗り越えられていなかったのです。一方、ギリシャは最も輝かしい時代を迎えていました。もちろん、今情勢は大きく変わりました。
-なぜイスタンブルなのでしょうか。
観光客としてトルコへ来て、まずベイオウルに初めて出かけたとき、「私はここに住みたい。」とつぶやきました。イスタンブルは私が生まれた街ではありませんが、住むことを選んだ街なのです。
-ギリシャ人はトルコ人を理解しているのでしょうか。
いいえ。二つの国の国民の間には、重要な差異があります。ギリシャでは、トルコ人に対し偏見があります。トルコ人は本来、とても親切で、とても感情豊かな人々です。ときにこの感情が誤解の原因にさえなるのです。すぐに落ち込みます。ロマンチックで憂いをおびているとさえ言うこともできます。愉しんでいるのに、演奏する音楽は憂いをおびているのです。彼らが好むギリシャの歌もそのようなものです。
-イスタンブルのルームは現在どのような状況にあるのでしょうか。
古い世代はとてもひどい状況の下、この町を捨て去ることを余儀なくされました。彼らは嫌な思い出を持っています。しかし、時代は変わったのです。いまここにあるトルコは別のものです。私に言わせれば、この変化の最も重要な側面は、社会の大部分が、過去にマイノリティにたいし相応しいと思って行った対応に関し、後悔していることです。トルコ社会はルームが去ってしまったことを、もはやイスタンブルにとっての「喪失」であるとみなしています。今日、イスタンブルで暮らしているルームの若者たちは、「イスタンブルっ子」であることに誇りを感じています。家族がギリシャへ渡っていったルームの若者たちへも「家族のいうことに耳を傾けるな、彼らは今日のイスタンブルを知らない。トルコへ戻ってきなさい。」と呼びかけています。
―イスタンブルに住んでいて幸せですか。
はい。友人の多くはトルコ人です。ただ、冬が悲しい雰囲気でなければ・・・。さらに、都市化のためにイスタンブルが昔の建築物を失っていることを残念に思っています。
「イスタンブルっ子」であるというギリシャ人
アテネとケンブリッジ大学で法律を学んだアレキサンドロス・マッサヴェタス氏は、ジャーナリスト一家の出身である。少し前に廃刊になったエレフテロティピア新聞の編集長とコラム二ストを長年務めていたヨルゴ・マッサヴェタス氏の息子であるアレキサンドロス氏は、イスタンブルへ移住後、5年間ギリシャの有名な新聞の一つであるカトイメリニのイスタンブル特派員を務めた。自身を、「イスタンブルっ子」だと紹介している。2001年に初めて訪問したイスタンブルで、初日にベイオウルを散策した際、この街に住むことに決めたという。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:児仁井ひかる )
( 記事ID:26003 )