父は戻ってくると希望を抱いて過ごした―60年クーデター被告の書簡集出版
2012年05月27日付 Yeni Safak 紙


(1960年)5月27日に起きたクーデターの犠牲者の1人であるテヴフィク・イレリ氏が、愛妻へと綴った手紙が、その娘であるジャヒデ・イレリ・アクソイさんにより編纂され、『ヤッス島からの手紙』というタイトルにて出版された。この本の中には、1930年から1960年までに書かれた手紙と家族の写真が収められている。ジャヒデ・イレリ・アクソイさんはわれわれに、5月27日が人生に及ぼした影響を率直に語ってくれた。

(1960年)5月27日クーデターの犠牲者である、当時の民主党所属議員であり国民教育相でもあったテヴフィク・イレリ氏とその妻ヴァスフィイェ・イレリさんは互いに愛し合った夫婦であった。娘のジャヒデ・イレリ・アクソイさんは母のヴァスフィイェさんと共に、非常に仲睦まじいこの夫婦の愛情が文面に満ち溢れる手紙のやり取りを編纂し、一冊の本にまとめた。『ヤッス島からの手紙』と題されたこの本は、これらの手紙で構成されている。これらの手紙は、イレリ氏の人柄や当時経験した困難、そして妻のヴァスフィイェさんに対する愛情を語っている。ジャヒデさんは父を非常に愛しており、父との思い出を語るときには目に涙を浮かばせた。彼女たち家族が経験したいくつもの物質的・精神的苦痛にもかかわらず、父の「上品に振る舞いなさい」という忠告を聞き、経験したことに対する不満はまったく口にしない。母のヴァスフィイェさんを昨年失ったジャヒデさんの最大の悲しみは、母が本の完成を目にすることができなかったことだ。ジャヒデさんは、彼女の体験をとても美しい言葉で語ってくれた。この魅力が損なわれないようにと、彼女の人生を彼女の言葉で語ることにしよう。

■とても私的な手紙は出版できませんでした

ジャヒデさんは、本に収められた手紙のことから話を始めた。「母が健在のときから手紙の編纂を始めました。オスマン語にて書かれていたため、母が現在のトルコ語に訳して私がそれを書き取りました。父と母が互いに綴った手紙の中には、非常に私的なものもいくつかありました。母は私に『これらの手紙は決して誰にも見せてはだめよ』と注意しました。私も母に約束し、両親の私的な手紙は本に収録しませんでした。しかし、母は本の完成を目にすることができませんでした。手紙の一部は、1930年代に父がまだ学生の頃から始まります。同時期に父と母はリゼにて知り合っています。最初の手紙は、母と婚約していた時分に書かれています。母はこの当時の手紙を大事にとっていました。手紙は年代毎に分けました。1930年代から始まり、1950年代と1960年代が続いた後にヤッス島からの手紙が収録されています。また本の中には、母が父へ宛てた手紙や父が旅行中に書いた手紙も収められています。父は2~3日の旅行でさえも、旅先で母への手紙を欠かさず書いていました。経験したことすべてを母と共有したかったのでしょう。それらの手紙は、互いに愛しあう2人の絆と、父が訪れた土地のようすやライフスタイルを物語っています。」

■私の名前はジャヒデ・スルタンに由来

「両親は1934年にエルズルムへ移り第1子イルケルを授かるも、まだ6ヶ月という幼さでその子を失ってしまいます。エルズルムで4年間過ごした後、2人はチャナッカレへ移住し、そこで二人目の子どもを授かります。母は第1子を失った苦痛から、第2子にはとても緊張していました。子どもの教育のために多くの本を読んで学びました。さらにはすべてのおもちゃを消毒したそうです。しかし、その子も伝染病により1歳半で亡くなります。1941年に第3子として私が生まれます。父はその時30代でした。私が長生きしますようにと、チャナッカレにあるジャヒデ・スルタン廟を訪ねたそうです。私の名前もジャヒデ・スルタンに由来しています。私が6ヶ月の時、父のサムスン赴任が命じられ、妹のアイシェはサムスンにて生まれます。妹の名前は当初アレヴ(炎の意)でした。しかし妹が高熱を出したことから、名前をアイシェに変えたそうです。その後サムスンにて弟のジャヒトが生まれます。」

■家では詩の会が開かれた

「父は(仕事柄)よく旅行に出かけていましたが、私たちが置き去りにされていると感じたことはまったくありません。家では愛情をもって接してくれました。私が小学校に上がった頃のことです。父は常に読書好きでした。一月の生活費にも困る状況にもかかわらず本を買ってきてくれました。私はよくサムスンにある父の役所によく行きました。父と共に本屋に行って本を買いました。父とはとても仲が良かったです。一緒にいる時間の貴重さを知っており、良い時間を過ごすことができました。父も私たちをとても愛していました。父は私たちを愛し、またその愛情をとても上手に表現する人でした。ですから、私たちは父を悲しませることを望まず、また褒められようとしました。父は私たちに厳しい言葉を言ったことさえありません。父は『祖国解放戦争の後』と題した詩集を編んでいます。午後に帰宅すると、私たちにその中の詩を読んでくれました。家ではよく詩の会や音楽、宗教歌の会が開かれました。芸術的な環境の中で私たちは育ちました。そのおかげで、よい友人もできました。サミ・アイヴェルディやニハト・アスヤルといった偉大な人々も、我が家をよく訪れました。私の幼少期は、彼らとともに過ぎました。」

■苗字を名乗ることを恥じらった

「家族の中では、私と兄弟たちはまったく子ども扱いされませんでした。両親は私たちを大人のように扱い、私たちの意思をいつも問いました。父は私たち家族を『民主的な家族』と言っていました。どんなことも話し合い、意見を交換しながら決めました。私たちの意思を理解し、尊重してくれました。どんなときも私たちに、『お前はまだ子どもだから理解できないだろう』とは言いませんでした。父は私たちに、『目の前に書類がきたときだけ、そうだ、自分は大臣なんだと思う』とよく言っていました。大臣という職業も、奉仕として行なっていました。父が大臣になったことで、私たちの生活が変わってしまったということはまったくありません。苗字を名乗ることが恥ずかしかったぐらいです。」

■5月27日

(1960年)5月27日、父は朝の5時に私たちを起こしました。非常事態であることは理解しました。銃やライフルの音を聞きました。その時までクーデターというものを見たことはありませんでした。一体どのようなものなのかわからないため、戸惑いました。ラジオからアルパルスラン・チュルケシの声で、革命が行われたという宣言を聞きました。その時、一人の将校がやって来て、父を連行すると言いました。父ときちんとお別れをすることは叶いませんでした。父は戻ってくると、ずっと考えていました。どこへ連行されたかさえ知りませんでした。彼らは父を、まず軍事学校へ連行したそうです。そこから私たち宛てに、無事であることを伝える短い手紙が届きました。軍事学校の前には、連絡事務所が置かれていました。面会は禁止されていたため、互いに短い手紙を書いて連絡を取り合っていました。その後、父はヤッス島へ送られました。」

■最初の面会

「その事件から8ヶ月後、面会の許可が出ました。ドルマバフチェから船でヤッス島へ向かいました。何ヶ月も経ったというのに、父との面会は僅か30分でした。言葉を交わすことなく、ただ互いに抱きしめ合いました。外見にはほとんど変わりありませんでした。ただ少し痩せたようでした。父は信仰深く、敬虔で、すべては神の思し召しによるものと信じる人でした。母もまた、そのような女性でした。その時置かれていた状況に、不平をこぼしたことはまったくありません。ですから、父が私たちに宛てた手紙にも、また私たちが父へ宛てた手紙にも希望が綴られていました。手紙の中で、日々の苦労について触れられることはありませんでした。きっと、父はひどい状況下で過ごしていたはずです。私たちは毎日、父へ手紙を書きました。そのため、いつも父と一緒にいるような気持ちでした。離れ離れだと感じたことはまったくありません。私たちは疑うことなく、いつでも会うことはできると考えていました。父も、最期の時まで、ずっとそのように考えていました。私たち3人兄弟は、自分たちでお金を稼ぎました。最初に弟のジャヒトが仕事に就き、初任給の一部を父に送金しました。私たちは勉強しながら働きました。これは私たちにとって不満ではありませんでした。父が生きていることだけで、私たちには十分でした。」

■最後の面会

「10月14日に裁判が始まり、最初の審問へは私が赴きました。警告がなされ、会話や仕草をすることは禁止されました。反対派の人々が父の隣の席に並び、私は父が座る席 の後ろに座らされました。父は私が来ることを知っており、ただ前を通り過ぎるときだけ私を見ました。その瞬間、父と目が合いました。父が席に座り、審問の間ずっと背後から父を見つめていました。それから数年が経ちました…父は病に伏し、カイセリの病院へ運ばれました。母とともに父を見舞いに行ったとき、父は39度の高熱でした。このことも、カイセリで書かれた手紙から知りました。その手紙の中には、『ひどい病にかかっている。見舞いに来る人たちに、私のこのような姿を見せたくない』と書かれています。他にも病院での記憶を綴っています。熱があり、寒気もします。病室のドアは開いており、ドアの側には2人の兵士が立っています。父は『寒気がする。ドアを閉めてくれないか』と言いますが、『これは命令である』と兵士は言い、ドアを閉めてくれません。毛布を望んでも与えてくれません。私たちを病室へも入れてくれず、兵士らは病の父を下の階につれてきました。母とともに父を待っていると、向かいから一人の男性が私たちに向かって微笑みながら近づいて来ました。信じられないことに、その男性が父でした。父と見分けがつかないほどの状態でした。体重は40㎏まで落ち、やせ細った痛々しい姿でした。父との面会の後、母とホテルへ戻り、私は何時間も泣き続けました。」

■父のような夫と巡り会いました

「父のことが大好きな子どもでした。父も母をとても愛し、その愛情を隠しはしませんでした。父は、『私はこのように振る舞うことで、娘たちに悪いことをしている。娘たちは誰もが私のようだと考えてしまい、将来男性に失望してしまうかもしれない』とよく言っていました。しかしありがたいことに、私はアイハンのような人と出会うことができました。アイハンは夫であり、父のような人です。」

■母は50年間父と離れ離れになった

「母は50年もの間、父と離れ離れになりました。しかし母はいつも、『私は彼と離れたことはないわ』と言っていました。母は自身をいつも父と一緒であるかのように考えていました。母は亡くなるまで、強い心を持っていました。国の問題にとても関心を持っていました。1年前、家の中で倒れて頭を負傷しました。その出来事があった後、回復しませんでした。リハビリに努めているとき、再び発作が起こりました。昨年のラマザン月では断食を行い、最期の瞬間までコーランを握り締めていました。10日間ほど病院に入院し、この世を去りました。享年98歳でした。」
■「5月27日クーデター」は、クーデターという慣習を生み出した

「父は私たちに宛てた手紙の中でいつも、上品に振る舞うことと、騒ぎ立てないようにと忠告しました。しかし私たちは、どんなときもこの状況を受け入れず、普通と見なすこともなく、そしていかなるときも許しませんでした。これは別の事柄です。5月27日は、私たちの人生を壊しました。家族みんなが痛みを受けました。しかし、国が受けた悲しみのほうがもっと大切です。なぜならこの状況が、クーデターの道を開いたのですから。このとき初めて軍隊は兵舎をで、その後二度と戻ることはありませんでした。このような慣習を生み出してしまったのです。今後、クーデターという習慣に終焉が訪れることを願います。」

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:26521 )