オザル大統領の死の疑惑とエルフ虐殺事件
2012年06月17日付 Zaman 紙

第8代大統領トゥルグト・オザル氏の死亡に関する国家監査委員会の報告書によると、オザル元大統領の死(訳註:1993年4月17日、12日間の海外歴訪の後亡くなった)が暗殺によるものだという疑いが強まった。第2次オザル政権で保健大臣を務めたビュレント・アカルジャル氏は、問題の報告書をジハン通信に検証するよう求めた。アカルジャル氏は、オザル元大統領の死の原因を知りたいのなら、実業家のニヤズィ・アドゥギュゼル氏と、オザル大統領を標的として行われた暗殺(訳註:オザル大統領が首相だった1988年6月18日、祖国党第二回通常総会でカルタル・デミルアーにより実行された暗殺未遂事件)についての調査が必要だと話した。ビュレント・アカルジャル氏は、1993年に相次いだ死の始まりがエルフの虐殺であったとし、虐殺がトルコ軍からオザル首相に24時間後に知らされていたと述べた。

祖国党の創設者の一人で、5期にわたって同じ政党で国会議員を務めた元大臣のビュレント・アカルジャル氏は、「トゥルグト・オザル氏の疑惑の死についての調査がなされているが、祖国党時代の、政治的観点から重要な二つの事件も調査されるべきである。一つ目は、ベドゥレッティン・ダラン氏がイスタンブル広域市市長だったときに彼の右腕で、すべてであったニヤズィ・アドゥギュゼル氏が、トルコ大国民議会から100mの距離にあるビュユク・アンカラ・ホテルのロビーで殺害された事件である。ニヤズィ・アドゥギュゼル氏は、70年代に有名だった実業家である。テュルクメン・カディフェなどを創設した。非常に賢く、民族主義的で、ポジティブな様子で、ベドゥレッティン氏の傍らにいた。祖国党やベドゥレッティン・ダラン氏の権力が頂点に達していたときに、ビュユク・アンカラ・ホテルで撃たれて死んだが、三日間だけしか騒がれなかった。この事件は調査もされず、報道もされなかった。なぜ撃たれたのか誰にも調査されなかった。おそらく一連の事件はここから始まった。私からすれば、議会の向かいにあるホテルでこのようなことが行われたことは、脅迫するためだろう。もう一つの大きな事件は、祖国党の第二回総会でトゥルグト・オザル氏に対して行われた暗殺未遂事件である。この暗殺未遂事件に関しても、全く調査されなかった。トゥルグト・オザル氏もそれを望まなかった。政治的な圧力があったのか、これら二つの事件は隠蔽された。私からすれば二つとも脅迫だ」と話した。

■「トゥルグト・オザル氏はなぜ大統領になる必要性を感じたのか」

これらの事件は二つとも調査される必要があると述べるビュレント・アカルジャル氏は、以下のように話した。「ニヤズィ・アドゥギュゼル氏の死は調査されなければならない。また、トゥルグト・オザル氏の暗殺実行犯はまだ生きており、本人と話すことができる。明らかに間違いなくたどり着くことのできる問題があるなら、19年が過ぎてオザル氏の墓をあばくことも検討されている。例えば、調査がなされてトゥルグト・オザル氏に毒が盛られたことが明らかになったとしよう。あなた方はそこからどこにたどり着くか。それは一つの結果である。ことは初めから扱う必要がある。もしトゥルグト・オザル氏が、毒を盛られて死んだとすれば、食べ物や飲み物に盛られた毒によるものと考えられる。武器やその他のものによってではないということだ。トゥルグト(オザル)氏に、彼が大統領だった時に毒を盛れる人物(単独犯もしくは複数犯)がいるなら、そうしたことができる人間がいるなら、そうした人間はかなり前から存在したということである。彼らはまずベドゥレッティン・ダランを通じて国会に、次にトゥルグト(オザル)氏本人に、1988年の暗殺未遂事件で力を見せつけようとした。おそらくこのためトゥルグト(オザル)氏は、政党から離れ大統領になる必要性を感じたのだろう。まずこれらのことを調べる必要がある。他の部分は私が思うに、衝撃的なものになる気がする」

■「国家監査委員会はもっと透明性を持って取り組むべきだった」

国家監査委員会の取り組む姿勢を批判するビュレント・アカルジャル氏は、もしニヤズィ・アドゥギュゼル氏とオザル氏に対するカルタル・デミルアーによる暗殺事件が言及されていないなら、報告書をもう一度作成する必要があると話した。アカルジャル氏は、以下のように続けた。「トゥルグト(オザル)氏の墓があばかれ、調査が行われ、墓があばかれるなら、何十ものカメラが追うことになり、何日も話題となるはずだ。結局何もでてこないだろう。結果を出させるには、起こった事件そのものを調べる必要がある。もし、国家監査委員会の報告書が、ニヤズィ・アドゥギュゼル氏とオザル氏の暗殺事件の当事者、カルタル・デミルアーについて言及していないなら、この報告書は再び作成されなければならない。国家監査委員会はどの基準に基づいて取り組んだのだろうか。私たちはこれらのうち何も知らない。まずこのようなことがあった時の、欧米諸国での取り組み方はこのようなものである。まず初めに公表する。透明性がある。これは秘密の出来事ではないのだから。ありもしない陰謀を防ぐために秘密裏に行われる調査ではないのだから。何千回も議論されたような問題である。国家監査委員会は世論に対して、「私たちはこの件に関して調査をしています。連絡先はこちらです。この件に関して意見のある方は、書面や口頭で私たちにご連絡ください」と言うような姿勢を見せる必要があった。インターネットというものがある。メールアドレスを載せ、届いたメールから、調査資料として役立つと思ったものを尋ね、詳細な情報を求めことができた。国家監査委員会はどの方法を用いてこの報告書を作ったのか。政治とは、とても近いと考えた人がそのことに関して何も知らず、遠いと思った人が完全にそのことに関わっている、というようなものなのである。詩人はなんと言ったか。『海の中にいるときは海を知らない』と言ったのだ」

■「エルフの虐殺は、トゥルグト・オザル大統領に24時間後に伝えられていた」

ビュレント・アカルジャル氏は、ウウル・ムムジュ氏、アドゥナン・カフヴェジ氏、ジャンダルマ総司令官のエシュレフ・ビトゥリス氏、トゥルグト・オザル氏が、93年に相次いで死亡したことに関して、1984年8月15日に起こったエルフの虐殺から調査を始める必要があると話した。エルフの虐殺は、トゥルグト・オザル大統領に、軍から24時間後に知らされていたと話すアカルジャル氏は、以下のように述べた。「93年に起こった、ウウル・ムムジュ氏、アドゥナン・カフヴェジ氏、ジャンダルマ総司令官のエシュレフ・ビトゥリス氏、トゥルグト・オザル大統領の相次ぐ死亡に関する疑惑を明らかにするために、1984年8月15日に起こったエルフの虐殺から調査を始める必要がある。私たちは93年の一連の出来事が起こった当時生きていたので、より普遍的で包括的な分析ができる可能性を持っていると私は信じている。1983年末に、大きな驚きと共に祖国党は政権を獲得した。1984年3月25日に地方選挙を行った。東部や南東部以外の地域のすべての自治体は、退役した将校や現役の将校によって治められていた。行われた地方選挙では、祖国党が大勝した。私たちは党のすべての候補者を、おそらく初めて、地域の人たちのなかから、すなわち『クルド人、ザザ人、アッシリア人、トルコ人、アラブ人だ』という人たちの中から決めた。彼らは自治体長や県議会議員になった。トゥルグト(オザル)氏は、こうした枠組みで民主化運動を始めさせたと語っていた。私たちは政党としても、すべての活動をこの方向で行った。ちょうどその時に大規模な虐殺事件に直面した。土曜の夜に虐殺が起こった。私たちはその時国会にいた。とてもよく覚えている。私は夜の1時に、トゥルグト(オザル)氏が専用車に乗りこむときに彼に同行した。次の日に私たちはその虐殺について知った。考えられるか?軍は首相に虐殺を24時間後に知らせた。エルフの虐殺は、無線や電話の記録から、一国の首相に何時に知らされたかがわかる。夜の1時までに知らされていなかったことは私にもわかる。次の日には市民もテレビで知った。なぜならトゥルグト(オザル)氏がもっと前に知っていたなら、私たちに電話して、「準備しろ」と言ったはずだからだ。なぜか。なぜなら日曜日も国会が開いていたからだ。国会の議題は当然のこととして、このことになる。さらに私に任された。「立て、党を代表してお前が話せ」と言われた。人生でこれほど難しい演説をしたことはなかった。メティン・エミルオール氏、ハサン・ジェラル・ギュゼル氏が私を補助した。私たちは何を言えばいいかわからなかった。この虐殺がなぜ、どうやって、誰によって行われたのか、何も知らなかったのだから。93年に起こった一連の事件の始まりは、私が思うに、エルフの虐殺だ。明らかにこれらのことを計画した国内、海外の組織があるなら、その組織はエルフの虐殺の前にもあった。姿を見せては消え、再び現れてまた消える。誰もこれらの問題の根底にまで踏み込もみたがらない。トゥルグト(オザル)氏の死は、これらの問題に踏み込んで調査されなければならない」

■「トゥルグト・オザルの死をテレビで知った」

トゥルグト・オザル元大統領が死んだ日のことについてビュレント・アカルジャル氏は、オザル元大統領の死をテレビで知ったと述べた。アカルジャル氏は、「前日の夜は遅くまで働いていた。そのため起きるのが遅くなったのを覚えている。テレビをつけると、いろんなことが説明されていて、みな悲しんでいる様子だった。まだトゥルグト氏に関するニュースを聞かないうちに私は、「なんてこった!」と言った。3-5分後にトゥルグトさんの死が伝えられた。私がテレビをつけたのは、彼が病院に搬送されてから1時間後くらいだった。私もすぐに副党首として祖国党本部に行った。数日後に葬儀が行われた。私たちは葬儀に出席する外国からの来賓の応対をした。トゥルグト氏が亡くなってから、大統領の葬儀には多くの国家要人がプロトコル(儀典)にそって参列したが、トゥルグトさんが祖国党党首時代に知り合いになった、国家のプロトコルからは外れる立場の、数多くの政治家らも列席した。私たちは彼らとつながりを持つ必要があり、実際関係をもっていた。その当時私たちは野党で、私たちの手には国家的権限もなかった。それらすべてのことを私たちが担わなければならなかった。例えば、ハイダル・アリイェフ氏は当時ナヒチェヴァン自治共和国の首相だった。アリイェフ氏をアンカラからイスタンブルに送るのは私だった。そのため、私たちはこのような一連の事がらに関わらざるをえなかった」と述べた。

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:26739 )