ユルドゥズ・ホールディング経営責任者インタビュー
2012年08月05日付 Milliyet 紙

ユルドゥズ・ホールディング経営責任者のムラト・ユルケル氏は、2月 28日過程で起こったことや、軍との関係、チャムルジャに建設予定のモスクや自動車レースへの関心、アズィズ・ユルドゥルム氏の身に降りかかったことについて、知られていない多くのことを語った。ユルケル氏はザマン紙とのインタビューで、ユルケル氏自身に対して背信行為をしたという自身の会社の従業員を、当時の司令官の一人であるチェヴィク・ビル陸軍大将が暴露したと話した。

以下はインタビューの注目すべき部分である。

■「私に背いた者をチェヴィク・パシャが暴露した」

-ギュネシュ・タネル氏は以前、国会でクーデター調査委員会に、2月28日過程の時にユルケル・グループに関する、非常に興味深い話を説明しました。

「バスケットボールのチームに関してです。オルハンは私たちの親戚にいます。彼は、ギュネシュ・タネルが何を話しているかを私に聞いています。私は知らないと言った、(話は)君との間で終わったのだ。君はクラブの代表だったのだと。」

-その時期にユルケル・グループを軍は扇動していません。結局バスケットは、ユルケルはバスケットの試合で人々の手にトルコ国旗を与えて、それによりあなたがたがどれほど愛国者であるかが証明され、禁止が撤廃されました。

「まず私はこう言っておきたい。過去ではなく先を見なければならない、と。私は仕事においても、政策においても、常に明日どうなるか、私は何ができるか、どのように成功できるか、ということを考えています。さて、ここで過去の話をしましょう。私たちはこの部屋にいました。ある祭りの前でした。」

-2月28日過程ですか?

「はい。私たちにおいても習慣で、祭りの小包を作ります。まだ作っています。従業員にも配ります。友人や私たちが仕事をした人にも贈ります。祭りの小包を贈ることが非常に影響力のあるジェスチャーであり、幸せなことであるということを私たちは知っています。私たちはもちろん軍の将官たちにも贈ります。」

-「小包をチェヴィキ・ビル氏に贈ったのですか?」

「全員のパシャに贈りましたが、届けた人が帰ってきて、眉をしかめました。こうやって。彼は、彼らが受け取らなかったと言いました。彼らはどこからも贈り物は受け取ら ないみたいでした。チェヴィキ・パシャはあなたに手紙を送ったと彼は言いました。私は封筒を開けました。中には、手書きの手紙がありました。「私たちは贈り物を受け取れない。本部にそのような決まりがある。ただ君のそばにいる者たちに注意したまえ」と書いてありました。下にはもう一枚手紙がありました。開けてみると、私たちの贈り物を届けた人が書いたようでした。心配ですぐに書かれた手紙でした。私たちの小包と一緒にそれもチェヴィキ・パシャに贈ったようでした。パシャ、私は彼らのそばにいます。彼らはとても悪い人たちですと言うようなことが書いてありました。密告の手紙です。私たちは数日後、彼を呼び出しました。私は彼に陳情書を書かせ、二つの手紙を並べさせました。同じ手紙です。彼は顔を赤らめさえしませんでした。彼を追放しました。」

-あなたは何と言いましたか?

「私たちは泥棒に泥棒、悪いものに悪いとは言いません。言えば一度目はつけ上がります。二度目には君も悪者になります。続く人たちにそれは悪い例でした。あなたは善人であれと私たちは言います。私に背いた人がいたようです。チェヴィキ・パシャは私に彼を暴露したので、私は満足しました。2月28日過程の時は誰が参謀総長でしたか?」

-2月28日過程の時はイスマイル・ハック・カラダユ氏でした。

「彼の同級生や、彼の婿などと私たちは友人でした。彼らは、チェヴィキ・パシャと会いなさいと言った。私は会おうと言った。」

■チェヴィキ・ビル氏のお守り

-何と言いましたか。説明してください。私たちは良い人だと言ったのですか?

「はい。彼らは、私たちは君を知っていると言いました。どうしてこんなことが起こるのかなどと言いました。分かりました、会いましょう。私たちはあるホテルに行きました。街中のブティック・ホテルです。そこにパシャもきました。彼は私を見て、「ムラトなのか?」と言いました。「そうだ、私だ」と言いました。彼は、「君 はあいつだったのか?」と言いました。私はそうだと言いました。彼は、「君はいつもそうやって歩き回っているのか」と言いました。」

-彼は、あなたがターバンを巻いて歩き回っていると考えたのですか?

「分かりません。とにかくそのように考えられていたようです。パシャは、「私はとても信心深い人だ。そのようなことはない。私たちは行った仕事を評価している」というようなことを言いました。パシャは、「また、私もムスリムだ」と言いました。彼はポケットからお守りを出しました。「私は外出する際、これをかならずポケットに入れている」と言いました。私は、迷信を信じないし、そのようなものを信じないと言いました。」

■「私はバッカル(商店)のおじさんを怒らせることはできないと言った」

-2月28日過程の時期にトルコ国軍に属する多くの財団にあなたが資金を提供する必要があったことは、あなたが払った対価の一つですか?

「いいえ、私は一回尋ねました。このことにおいて指導者の一人であるパシャに。今も話した、考えを植え付ける人です。彼の名前は無視してください。彼は私に言いました。知らせが送られてきた。ユルケルも何かしなさい、この国において、誰を支持しているのか、示しなさいと。私たちは、なにができますか?と私は言いました。すると彼らは、たとえば、広告を打ったらどうだろうと述べました。
私は、もちろんやりますが、以下のようなことがあります。私は150軒のバッカルに行き、商品を配っています。あなたはそれらのバッカルを知っていて、私の仕事の規模をご存知でしょう。私がこの宣言をするなら、2月28日過程を支持するなら、バッカルのおじさんは怒りませんかと私は言いました。なぜなら彼らは、人々の大半が民主主義や自由の味方であることを知っているからです。私も一つの商社として、このようなことをするなら損害を被ります。バッカルのおじさんは私に怒りませんか?と。すると彼らは「はい、私たちはこれについて話し合います」と言いました。一週間後に彼らは、君は正しいことをしている、バッカルのおじさんを怒らせるなと言いました。」

-「この財団にお金を納めろ」とは言わなかったのですか?

「いいえ、誰もそのようなことをしたがりませんでした。サブリ・ベイ自身が言いました。「私たちは喜捨を与えている。私はとても悲しんでいる。南東部では腕や手がない子供たちがいる。これに対して私たちが人工補綴などをつくるなど、このようなことを見つければ、彼らの助けになればと思う。まだ若い子供たちは、彼らの人生は、どのように続くのか?」と彼は言いました。分かりました、考えますと私は言いました。私は国防省に行きました。イスメト・ゼズギン氏と会う約束をしました。話しました。説明しました。私は、イスメト氏がこのように言いました。サブリ・ベイのこのような提案があります。彼は、わかりました、パシャたちと話しますと言いました。リハビリ施設を建てるということでした。私たちはその時よい資金を提供しました。その上国防省は私を呼びました。小切手を私が送りました。そこでセレモニーを行いました。パシャたちが来ました。しかしサブリ・ベイが私に忠告したため、イスメト氏に、私たちが提供した資金はサブリ・ベイの喜捨です。ですから、このようなことに使ってくださいと私は言いました。私たちはムスリムではないのですか?喜捨が何であるか私たちは知っていますと彼は言いました。」

■「私の商品は高い。軍の食堂には入らない」

-「その時期はあなたの経営陣に将校はいましたか?」

「いいえ、誰もそのようなことを望みませんでした。誰もそこに寄付しろと言いませんでした。誰もその経営陣にその将校を雇えと言いませんでした。これらを書く人たち、描く人たち、または自分の影を恐れる人たちはあるいは他人をこわがらせるために書く人たちです。このようなことはありません。わたしは思いつきました。ヤシャル・ビュユカヌトゥ氏のところに行きました。彼もフェネルバフチェのファンです。私たちは話し合い、議論しました。アスラン・パシャもいました。彼は情報機関のリーダーでした。いまは軍学校の校長です。彼とも当時話しました。その日は、フラント・ディンク氏が撃たれました。アスラン・パシャ は本の虫です。彼には一式の素晴らしい本を贈りました。彼も私に本を贈りました。ヤシャル・パシャにもユルケルの規模や状況について説明しました。彼は私に、「私たちができることはありませんか?」と言いました。商品を買うか買わないかというようなことでした。私は、「私の商品をあなたの食堂で売ることはできないでしょう」と言いました。」

-なぜですか?

「私の商品は高いのです。その食堂では安い商品が売られています。多分安い商品を高く売って稼いでいます。流動資本を作っています。すべての食堂はそのような感じです。ですが問題はありません。なぜなら彼らは退役するとユルケルを食べているからです。すべてのところにとても感謝しています。たくさん売られています。このような良い会談がありました。その後トロン・パシャと会う約束をしました。セリミイェで司令官をしています。私は会いに行きました。他の実業家もいました。二人で一緒に行きました。彼は、「君はどっちのムラト・ユルケルだい?」と言いました。私は、有名なほうだと言いました。彼は、 「あぁ!」と言いました。「サブリ・ベイの息子かい?私は君の父親を知っているよ」と彼は言いました。すぐに彼はタメ口を使い始めました。「タイイプ・エルドアンを知っているかい?」と彼は言いました。私は、タイイプ・エルドアンは長い間イスタンブル市の市長をしていました。私もそこの実業家です。彼が今首相であることは置いておいてください。知っていますか、とはどういう意味ですか?知っていることはさておき、支持していますと言いました。とにかく、その会話が彼を気難しくしたので、そのように考えると、私は彼より前の政権も支持しています。私は実業家です。トルコで商売をしています。今後の政権を誰が握っても支持しますと私は言いました。そのあと少し話しました。これらの殉職者の葬儀などであなたが祈りを止めたりしたら、どうなりますか?」

■「軍の食堂に、ユルケルがある」

-「現在、軍の食堂にユルケルはありますか?」

「あります。軍がそれらを買いたい時は、また私が販売しようとすれば、いつもあります。」

-いつから禁止が撤廃されたのですか?

「公式でない禁止について君は尋ねているのですね。存在しない禁止について何が言えますか?ないのならなかったのです。」

-私は(禁止があったと)主張しているし、(そのことについて)尋ねています。

「答えられません。医者に患者についての守秘義務あるように、私たちにも顧客に関する守秘義務があります。」

-公正発展党が政権につき、状況が軟化した後ですか?さあ商品よ、来いと言われたのは。

「公正発展党が政権についた後、状況は軟化しませんでしたよ。かなり争いがうるさくなりました。思い出してください。」

-わかりました。この裁判所うんぬんは。(軍が)弱体化した後に(あなたの商品は、軍の)食堂に入ったのですか?

「弱体化したとは聞いていません。銃剣なしの銃(弱体化した軍)は何の役に立つのですか?そうなったらただの猟銃になってしまいます。トルコ共和国には、トルコ軍には、ユルケルのような会社から私は商品を買いませんと公式な文書を書いたり、言ったりする人はいません。ありえません。」

-非公式のものがあり得ます。

「非公式のものは誰でも言うことができます。」

■「2月28日過程に脅しを言わなかったら、根本から違っていただろう」

-その時期に軍は、あなたの会社の広告を中央のメディアで報道しないように一連の行動をしていたのですか?

「そのようなことはありませんでした。これは2月28日過程について人々が想像している、精神的なものです。このようなことはありません。」

-どのようにないのですか?

「脅しというのであれば、ありません。暗闇をこわがればどこも暗闇です。暗闇をこわがらなければ暗闇はありません。」

-彼らにとって、大変な脅しとなるようなことを言えたのですか?

「私は誰の言うことも聞きませんからね。私には悪い癖があります。友人も知っています。」

<後略>

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:27271 )