ギリシャ語は再び私たちの社会の器に収まるのか
2012年10月14日付 Radikal 紙


ギリシャ系住民が3000人にも満たない都市にて、ルーム語(注:ギリシャ系住民が用いるギリシャ語)の小説を1000部も印刷するような自滅的な試みは、そもそもルーム語の尊厳を回復させるための試みであった。

1960年代末、当時の政治的・社会的混乱を背景に、その時イスタンブルに暮らしていた人々からはおそらく注目されることもなく、ある歴史的な断絶が起きた。何百年もの間、都市の社会的生活や商店街、市場やコーヒーハウスに酒場、通りに溢れていたルーム語が、イスタンブルの公用語の一つであるという特徴を失ってしまったのだ。もちろん、これはたった1日で起きたことではない。ルーム語の都市生活からの後退は、何十年も続くトルコ化政策や、まさにこの政策が要因となった人口減少の累積的影響の結果として起きた。まず、商店の看板に書かれたルーム語による表現が消され、場所の名称も(単にアヤ・ステファノスやサマトゥヤといった地区名称だけでなく、何十もの通りの名も)ナショナライズされた。そして順番は人々へと回ってきた。 最初に、そして主要なものとして1920年代末に実現された(しかし1960年代初頭も含め次第に再度議題にのぼることとなる)「国民よ、トルコ語を話そう」キャンペーンにより、ギリシャ系住民も含むマイノリティは、コミュニティの中の公共の場ではトルコ語を話すこと、そして同じくこの手法によりトルコの言語や文化を内面化することも要求された。特に学校に通う若者らが「活動軍」を結成したこのキャンペーンは、路面電車や汽船内だけでなく、カジノや喫茶店、映画館や劇場といった娯楽場や避暑地、大通りや広場、街頭、そしてマイノリティの人々が多く暮らし、働く地区にて常に緊張状態を招く種となった。ルーム語やその他のマイノリティ言語にて新聞を読む人々の手から、新聞が怒りとともに奪われ破られた。トルコ語を話さない人々へは継続的に干渉が行われたため、頻繁にけんかが起きた。常に危機にさらされ、どんなときも干渉を受けるかもしれないという恐怖により、公共の場にて二人でルーム語を話すことは、ほとんど不可 能な状態となった。

■自己検閲と自己規制

ルーム語は、もちろん口語のコミュニケーションでのみ使われた言語ではなかった。かつては巨大な文語文化の伝統であり、また19世紀以降特にイスタンブルの出版世界にて重要な位置を占めた言語であった。ルーム語の書籍や新聞、雑誌などは、イスタンブルの出版世界に欠かせないものであったのだ。1950年代半ばまで、多くのルーム語新聞が出版世界では必要不可欠な一部であった。もちろん問題となったのは、このような明るい状況ではなかった。単独政党の時代、そうでなくても強い「規制下」にあった出版体制は、ルーム語や他のマイノリティ言語にとって完全に抑圧を意味していた。

自己検閲や自己規制は、マイノリティ言語による出版物にとって唯一の生き残るための戦略であった。多くのトルコ語新聞は(特にキプロス問題が話題となった時代において)、ルーム語のわかる専門家らを雇ってルーム語新聞や雑誌の「紙面」を注視し、それらの中の「背信傾向」の記事を報じることを国民の任務として考えていた。新聞は廃刊となる可能性もあったし、あるいは 9月の6日から7日にかけて起きた「事件」の間に見られたように印刷所が標的となる可能性もあった。この条件下にてギリシャ系住民の出版者らは、みな不安定さと気弱さのバランスの上に立つ奴隷となり、特に1960年代に(その中でも特に1964年の「国外追放」とともに)議題となった急速な人口問題解決の最初の犠牲者の一人となったのであった。10年に一度、何かしらの災害(税金や大虐殺、国外追放)に直面してきたギリシャ系住民らが努力と祖国を捨て去るほどに、ギリシャの出版世界も衰えていった。新聞の数は減少し、雑誌は廃刊となった。新たに書籍を出版するどころか、マイノリティの学校で授業のためにルーム語の本を見つけることすら不可能となった。

1980年代の初等学校における理科の授業にて、まさに1960年代初頭にイスタンブルで出版された教科書があり、20年にわたって生徒らが順番に使い回しながらボロボロになったその教科書の中で、「人間はいつの日か必ず月に足跡を残す」といった類の文章を読んだことを覚えている。1960年代以降ルーム語の書籍が出版されなかったことや、益々減少する一方の新聞が結婚式や洗礼式、そして特にお悔やみの記事以外にはごくわずかの記事しか載せなくなってしまったことにより、ルーム語はもはや読まれる言語というステータスを失ってしまった。ルーム語を読むための何かを見つけることは、「外部からの支援」によって、つまりギリシャ共和国からもたらされた書籍や雑誌、あるいは新聞などによってのみ可能であった。教師であった私の母は、この文語文化と子どもたちとの繋がりが切れてしまわないようにと、ギリシャから多くの挿絵入り神話や(幸運にも入手できた)絵本などを取り寄せていた(このためレッド・キットをラッキー・ ルーク、キャプテンスウィングをマーク、チェリキ・ブレクをブレクと認識していた)。その結果、現在のギリシャ語とは異なり独自に発展したルーム語は公の場からは排除されて衰えたが、家庭内でも苦労してようやく持ちこたえている状態となった。

話を戻すと、1960年代のある時に、イスタンブルの社会的歴史においておそらく大多数の人々が気付くこともなかった断絶が起きた。ルーム語はこの都市の言語の一つであることから外れた。ルーム語は、ギリシャ系住民とともに国外追放されたことにより、イスタンブルの社会もこの言語について考えず、書かず、話さないようになった。イストス出版社として40数年後にイスタンブルにて再びルーム語の(且つイスタンブル出身のギリシャ系住民によって書かれた)小説を出版することとなるわれわれの努力は、何よりもまずこの断絶に、そしてこの断絶が生み出した文化的破壊、より正確には喪失に注目を引きつけることや、失い、あるいは消えたのはギリシャ系住民だけではないと示すことであった。どう数えてもギリシャ系住民が3000人に満たないこの都市でルーム語の小説を 1000部印刷するようなことは、市場合理主義の観点からも「自殺行為」的な試みである。しかし本来これはルーム語にとって小さな「尊厳回復」の試みであった。勘違いしないでほしい。われわれの目的は、もはや過去となったルーム語の美しい日々が心地良い声として思い出されることではない。われわれはギリシャ系住民、あるいはマイノリティのグループが「郷愁の念に満たされること」や、トルコの政治的・社会的動向から独立した友好的な民俗的要素の状態になることには完全に反対だ。それどころか、郷愁の念を、今現在において進行中の現実と取り替えたいと考えている。ルーム語の本を出版しながら「社会の器」に、みなで共有するこの社会の器にたった2つだけでなく、もっと多くの言語を詰め込むことが、贅沢ではなく豊かさであり、さらには早急な必要性であることを、われわれも自分たち自身に思い出させることが目的なのだ。

■「1964年世代」の二人の人物

キリスト・アナグノストプーロスの「猶予と傾斜」というタイトルの小説は、「1964年世代」の二人の人物の話だ。今の文に訂正はない。1968年ではなく、「1964年世代」というのが重要だ。トルコ政府がキプロス問題との関わりで外交的な切り札のように利用した主要なギリシャ系住民の国外追放の結果として、祖国からつまみ出された人々の一人であるディミトリとヨルゴの、一方はギリシャでの、もう一方はドイツでのそれぞれ波瀾万丈な人生をこの小説は語っている。根無し草であることや定住することができないこと、「地元の人間」になれないこと、そして家にいると全く感じることができないことについて。どこへ行っても「よそ者」と宣告されるこの二人の人生は、先延ばしにされ、そのため決して下されることのない決定によって宙に浮いているようだ。猶予された選択と決定でいっぱいの人生は、望もうが望むまいがずっと彼らを斜面から引きずり下ろす。自身の人生もトルコやギリシャ、そしてドイツの間で分裂されたアナグノストプーロスは、この小説で1960年代にイスタンブルを離れることを強いられたギリシャ系住民の心理状態について、(近年非常に増加しているマイノリティ研究の中にも 見当たらないぐらい)最も鋭く、そして痛ましいほどの観察力を示している。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:27891 )