スラヤ・パクザド、シリアの女性のことをよく理解できる
2012年10月14日付 Yeni Safak 紙
戦争のあらゆる負の面を見てきたアフガン人のスラヤ・パクザド氏は、トルコへ逃れたシリア人女性たちを支援するため、自らが設立した「女性の声協会」を伴い、イスタンブルを訪れた。パクザド氏はタリバン政権時代に女性が受けてきた困難について語り、「シリア人女性のことを一番よく理解できるのは私たちだ」と話す。
アフガニスタンで選ばざるを得なかった道を決然と進む、「女性の声協会」を運営する女性たちが、今シリアの仲間を孤立させないよう活動している。スラヤ・パクザト氏はオーストラリアで見つけた協力者の一家とともに、トルコに逃れたシリア人女性たちを支援しようと、トルコの女性団体と協力して活動を始めた。パクザド氏は、彼女たちのことを一番よく分かるのは自分たちだと強調する。
「私たちは約30年間移民であること、不当に扱われることを身をもって経験してきました。このようなことをいかに解決していくかも知っています。彼女たちを手助けできます。組織の名前を「女性の声」とした時、なぜ「アフガン」をつけなかったのかと聞かれました。私は『どうして物事を大きく考えないの?この機関はいつか世界中の声なき女性の声となりえるのよ』と答えました。そして今、この理想に近づいています。」
タリバン政権時代に少女を学校に通わせるためあらゆる危険に挑んだ女性活動家の一人であるパクザド氏は、これまでに何度も死にかけたという。
■自宅を学校にした教師
パクザド氏やその他のアフガン人女性が経験したことは、実は戦争による傷跡を女性の視点で一番明確に示している。タリバン政権時代に女性が受けてきた抑圧に耐えられなかったパクザド氏は、「誰かがこの権利の侵害をとめてくれるだろう」という考えで長い間待っていたという。
「タリバン政権時代、私たちは孤立していました。何か月も待ち、何年も経ちましたが、誰も助けに来なかった。私は行動に出ました。自分自身を助けられないのなら、誰も助けてなどくれないです。」
そして彼女はアフガニスタンに本部を置く「女性の声協会」を設立した。
文学部を卒業したこの若い女性は、学校を卒業した時点で3人の子供の母親だった。教師の経験はないが、教育を受けられない少女たちのために何かをしなければならなかった。最初に自分と同じように考える9人の友人と自宅で集まり、理想を語り始めた。少女のために学校を開く事は空想的にも、決して実現できないもののようにも見えた。しかしスラヤ・パクザド氏はあきらめず、自宅を地下の秘密の大きな学校にした。
■300人の少女を教育
子供たちの本は自宅に隠した。スラヤ・パクザド氏は当時を次のように語る。
「当時一番重要なのは少女たちの状況でした。私が人と違う事をしましたが、これもその一つです。最初に自宅を学校にしました。朝も昼も少女たちが来て授業を受けました。その後、他の9人の友人も私に続きました。合計10軒の家が学校のように機能し始め、私たちは300人の少女に教育を与えました。このシステムは完全に地下活動であり、ボランティアの原理に則って成り立っていました。彼らの家族も子供たちのためにこの秘密を共有しました。彼らも私のように2年間待ったのです。それでも何も起こらないのでこれに頼ったのです。」
■死は私のすぐ近くにあった
一切の金銭的な支援を受けずに活動を続ける「女性の声協会」にとって、当時リスクは非常に大きかった。2005年以降アフガニスタンで13人の女性活動家が殺害された。中にはラジオ所有者、教師、記者、看護師など様々な職業を持つ人々が含まれ、最も辛いのはこの女性たちが誰に殺されたのか分からないということだ。
スラヤ氏も常に殺害予告を受けてきた。
「リスクと死は私のすぐ近くにあります。非常に深刻な脅迫を受け続けていますが、いつ私が実際にそのような目に遭うか分からない。この脅迫で私は毎日精神的に追い詰められています。去年非常に深刻な脅迫を受けました。このために2週間自分の家に帰れず、友人の家に泊まりました。子供たちは私と一緒でしたが、彼らを説得するのは難しかった。状況が落ち着いたと思ったところで仕事を再開しました。」
■私たちは何の権利もない奴隷ではない
スラヤ・パクザド氏は現在、建設した避難所で120人の女性を父親や兄弟、夫からの暴力から守ろうとしている。彼女は、誰かが前に立ち、闘わなければならないという。なぜならば「その娘や、その娘の娘は勝利を祝うべき」だからだ。彼女はこのために闘っているのだ。
パクザド氏は「私はあきらめられない。このリスクを負わなければならない。どこかの国に移ることも、そこに住むことも念頭にない。彼女たちのことを放っておけない、彼女たちは私たちの元を訪れても、話すこともできないほどです。しかし、どれほど助けを必要としているのか、彼女たちの表情から、瞳から、時には心で感じられるでしょう。私に選ぶ権利はない、私は彼女たちを裏切れないのです。彼女たちに、恐怖を感じているのでもう活動を続けられないなどとは言えません」と心中を明かす。
パクザド氏は協会で少女たちの教育だけでなく、就職、家族計画、少女の保護、住居探しにおいても支援活動を行っている。このため、国内の別の層からは批判を浴びている。
「この国の全ての人は、ムスリムの女性を家庭で男性に仕え、男性の名誉、世間体を守るものとみなしています。女性は決して文句を言わず、何があっても男性を優先しなければならない!私たちがしようとしている女性運動はタリバンに反するものです。彼らによれば女性は裁判所へ行って自分の権利を主張することはありません。これは男性に屈辱を与えることになるからです。彼らの原理と法則では、女性には居場所も、権利も、存在さえもないのです!」
■トラウマに苦しむ人たちに芸術を
女性の権利のための闘いを続けるにあたり、夫や娘たちに支えられているスラヤ・パクザド氏は興味深い思い出を次のように語った。
「私の長女は14歳のある日、家に泣きながら帰ってきました。友達にからかわれたというのです。『お母さんの評判は全然良くないわ、この仕事をやめて。そうでなければ私は学校へ行かない』と言いました。14歳の娘にこの事を説明するのは大変でしたが、私は娘に、私の活動は、そのからかった友達の未来を救うことにつながるのだと説明しました。同時に私は詩人なので、娘に詩を書きました。「私は今日死ぬかもしれないけれど、あなたは未来を生きなさい/私は今日死ぬかもしれないけれど、あなたのお友達は安全に暮らせますように」と。娘はこれをとても気に入り、「私を丸め込んでいるのね、でもいいわ。」と言いました。娘は今では18歳です。避難所でトラウマに苦しむ女性たちに芸術を教え、彼女たちの話を聞いています。時々彼女たちに料理をふるまうこともあります。」
(本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介
されています。)
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:27892 )