Ismet Berkanコラム:包括的解決策以外にクルド問題の出口はない
2012年10月19日付 Hurriyet 紙

アンカラの情報通の記者の1人であるシュクリュ・キュチュクシャーヒンが昨日ヒュッリイェト紙に掲載した記事を読んだ人たちは、さらにイェニ・シャファク紙の一面記事に目を通したとすれば、急に希望を持ったことだろう。

アブドゥッラー・ギュル大統領は、中身・内容が不明なイニシアティブを取って、クルド問題の解決に着手した。

非常に長い間トルコを困らせているこの2つの大きな問題の解決に向けた、政治指導者によるいかなる試みは、もちろん良いことである。

もし命を落とす人が1人減るのであれば、もし流血が止まるのであれば、人々を山へ登らせ自分の国の兵士や警官に銃を向けさせ、また彼らを「分離テロリスト」との烙印を押すような問題の解決の一助になるならば、人たるものとして喜ぶのは当然のことである。

しかし、私は、喜ぶのは時期尚早であると思っている。

先述したように、アブドゥッラー・ギュル大統領の試みの内容について、我々は知らない。ギュル大統領が始めたというこの試みが、この先、議会の大半を占める公正発展党(AKP)及び少なくとも第一野党である共和人民党(CHP)からの支持を得て、政府もギュル大統領をバックアップすることを願う。

しかし、牛乳で火傷した者がヨーグルトに息を吹いて冷ましながら食べるように、この件について私には躊躇いがあり、不安である。

戸惑いもある。というのも、クルド問題とその延長線上にあるテロ問題を解決するには、より包括的な見方に沿って歩み寄る必要がある。

この見方は、最も一般的な意味で、民主化、人権の尊重、自由が基本となる。EU加盟の進捗報告書が、虚栄心とともにゴミに捨てられるような国で、民主化、人権の尊重、自由の組織化の基にした歩み寄りがあるとは思えないし、近いうちに歩み寄るとも思えない。

先述したこの3つの点で歩み寄ることができなかったように、トルコのクルド人たちが自分たちが平等であると感じるために行うべき点について、全く歩み寄りがな い。それどころか、圧倒的多数は、クルド人たちが十分すぎるほどの権利を有していると考えるほど、全く異なる世界で暮らしている。

他方、わたしはこの件に関して不安である。というのも、「解決」という言葉をこれほど多用してきたにもかかわらず、結論に結びつかなかったことにより、この言葉の価値をゆるめ損ないはしないかと気にしている。

この戸惑いや不安が勘違いであることを願う。

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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:27936 )