メンデレス処刑のヤッス島再開発、観光へ利用へ
2012年11月06日付 Zaman 紙


トルコ民主主義に対する最初の軍事介入のシンボルとして広く知られているヤッス島を、暗黒の歴史から救い出し、民主主義の島にするため、関係機関が動き始めた。

タイイプ・エルドアン首相の指示で動き出した文化観光省は歴史的な一歩を踏み出している。ヤッス島は「歴史保存地区」から脱却しつつある。2001年に採択された決定によってこの島には、釘一本さえも打つことができなくなった一方で、朽ち果て始めており、その見捨てられた姿は、来訪者に島の暗い歴史をまざまざと体感させるものだった。こうした問題ゆえに今回の歴史的な決定は下され、ヤッス島には博物館や新しい観光施設、観光スポットがつくられ、国民にとって重要な観光地になる予定だ。関係者から入手した情報によると、文化財・博物館総局に属するイスタンブル自然文化財保護協会の担当者が来週ヤッス島で調査を行い、調査の後に報告されるレポートで、最終的な一歩が踏み出されることになる。

政府の役人らは「獄窓に呻吟せしめられた」

数多くの本や詩の題材となったその歴史は、多くの史実に基づくものであるが、今日では(1960年)5月27日クーデターの後に設置された裁判所で思い出される。裁判所では民主党員たちが裁判にかけられ、故アドナン・メンデレス氏、当時のハサン・ポラトカン財務大臣、ファティン・リュシュテュ・ゾルル外相に死刑判決が下された。多くの民主党議員や役人がヤッス島で投獄された。島は歴史に一つの汚点を残した裁判の後、海軍に引き渡され教育活動を1978年まで行った。海軍がこの地を後にした後、島はまたしても無人の状況に陥る。1993年にイスタンブル大学水産学部にとってふさわしい活動の場所として注目されたことから、研究所がこの地に移ってくる。一日に二往復の市内フェリーが教師や生徒を運んでいた。しかし、遠いためまた必要品をそろえるのが難しくなったことから、水産学部も1995年に島を去っていた。ヤッス島は2001年以降「歴史保存地区」を宣言していた。

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( 翻訳者:清川智美 )
( 記事ID:28164 )