キプロス・ギリシャ側で過去との清算
2012年12月21日付 Hurriyet 紙

キプロス・ギリシャ政府は1950年代にゲリラ組織、キプロス闘争民族機構(EOKA)のテロにより犠牲になった人たちに対し初めて、初めて前向きな第一歩を踏み出した。1950年代にキプロス闘争民族機構(EOKA)により「共産主義者」「トルコ人の友人」と非難され、「反逆者」という烙印を押され、街中で釘のついた棒でリンチされ、殺害された19人のギリシャ人の名誉が回復された。

キプロス・ギリシャ政府のデメトリス・フリストフィアス大統領は、半世紀にわたりキプロスのギリシャ人社会が血を流し続けている傷について言及し、裏切り者といって非難されている市民の名誉回復に関する決定を承認した。1950年代にイギリスの植民地支配に対し武装闘争を初め、のちにキプロス島のトルコ人を襲撃した急進的ギリシャ民族主義者の組織であるキプロス闘争民族機構(EOKA)は、組織を支援しないキプロス・ギリシャ人を何百人も殺害した。キプロス闘争民族機構(EOKA)はキプロス・ギリシャ人やキプロス島のトルコ人を殺したと述べていた。

■釘のついた野球バットで殺した

この決定に最も喜んだうちの一人は、「反逆者の娘」という烙印を押されたペトル・パナギ・スティリアヌさん(71)であった。EOKAが1958年5月29日に道の真ん中で殺害したパナイオティス・トサロスさんの娘であるスティリアヌさんは、マゴサに近いアケリトゥ村での惨事について、「私は17歳でした。父は庭師をしていて、6人の子供を育てていました。父は門の前で2歳の孫を抱っこして遊んでいるとき、彼らがやってきたのです。顔にマスクをつけた7人のEOKAのメンバーは釘のついた野球バッドで父を、何十人もの近所の人や私の目の前で『反逆者』と叫びながら殺害しました。父の罪は『共産主義者』でありました。筆舌に尽くしがたい辛さを抱いてきました。政府は、父親を『反逆者』、私を『反逆者の娘』というレッテルから救ってくれました」と述べた。キプロス・ギリシャ政府が週始めに下した決定により、キプロス闘争民族機構(EOKA)財団と民族主義者各団体は不快感を示した。元EOKAメンバーが結成した財団は声明文を発表し、「申し訳ないとは思っていない。ただ敵に協力した反逆者や闘争を危険にさらす人々を殺害しただけだ」と述べられた。

■126人のトルコ人が殺害された

ギリシャ併合をめざすテロ組織、キプロス闘争民族機構(EOKA)は、自身らに敵対するキプロス・ギリシャ人に加え、キプロス島のトルコ人も抹殺するため殺戮を行った。1974年(7月20日)キプロス平和行動(訳注:いわゆるキプロスへのトルコ軍出兵)以前に、ムラトアーア村、アトルラル村、サンダルラル村で女性や子供を含む126人のトルコ人を殺害し、共同墓地に埋葬した。ギリシャからやって来た士官のゲオルギオス・グリヴァスとニコス・サンプソンが指揮していたEOKAには、トルコ人と共に作り上げたキプロス共和国の初代大統領マカリオス大主教も支援を行った。しかし、EOKAは1974年7月15日にマカリオスを軍事クーデターで失脚させ、キプロス島をギリシャに併合すると宣言した。5日後、トルコ軍がキプロス島に上陸した。EOKAの指導者の中にはかつてのキプロス・ギリシャの大統領であるタソス・パパンドプロスもいた。

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( 翻訳者:畔上曜子 )
( 記事ID:28635 )