■オリエント的エジプト?
2013年2月2日『アル=ハヤート』
【ハーズィム・サーギヤ】
エジプトで広まっているオリエント的イメージのなかに、エジプトがかつて集権的・強権的権力による施政や、オリエントさえ知らなかったような統治の伝統を駆使してきた強固な国だといったものがある。このことは、シリア・イラクといった地域の分断状況を踏まえると依然として正しい。現在、この地域では、これ見よがしと言ってもよいような動乱のなかに自らを曝している。
しかし、この比較によってエジプトが強固だと証明するのは十分ではない。なぜなら、イラクも、古くは集権的・強権的な権力を有していたのに、ご覧の通りモザイク状にばらばらになってしまっているからである。
大昔の歴史はあまり目的をなさないというのが大方の意見だ。すなわちエジプトの現在の様態は、見かけは、オリエント的な方向に向かっている。古い格言で言い換えると、エジプトはアラブの分裂した地域を結び付け、ある程度の調和をこの地域にもたらしていると言えよう。しかし今日のエジプトが身を置き、経験している現状はまるで逆のようである。
しかし、もし日々のニュースをフォローしている人が、現出しつつあるこうした様相、そしてこの様相を反映するかたちで対立し合う多くの勢力に着目することができるなら、事態は歴史、つまりある意味で混乱した我々の近代政治史に沿ったものとなろう。
エジプトでは、すでにその近代史において3度にわたって国民主義が大きく退廃した。一回目は、1928年にハサン・アル=バンナーが「ムスリム同胞団」の設立をもって開始したもので、エジプト国民国家をめぐる問題の焦点がイスラームと「ムスリム同胞団」に移行した。二度目の大きな退廃は、ガマール・アブドゥンナースィルと青年将校たちの出現とともに、とりわけ1956年以降に生じた。そこでは、焦点が「アラブ民族」と「アラブ民族主義」に移された。たとえ、サーダート主義、とりわけキャンプ・デーヴィッド合意が、エジプトおよび同国をめぐる諸問題へと焦点を戻すのに寄与したとしても、当時の湾岸への移住の爆発的増加が、国民の関係を弱化させた。すなわち、著しい社会的不均衡が国民の関係に生じた。このことは、ホスニー・ムバーラク時代に最大の関心事となったが、それに伴うかたちで、エジプトの国民主権におけるもっとも主要な要素の一つだったイニシアティブ外交からの撤退がなされてしまった。
これらの退廃すべてのただ中で、コプト問題がある時は公然と、しかし多くの場合、抑え気味、ないしは躊躇気味に、激しさと混乱を増した。
今日、ムスリム同胞団政権が発足した。それは、たとえ、エジプト国民の関係が徐々に弱まっていることを物的に体現するかたちで、サラフィー主義者が同胞団から離反しても、大衆的で強力であるだろう。エジプト革命やその未来の発展をめぐる問題とは、以下の点にあると言うことができる。すなわち、独裁制を脱却する自由は、離婚が行われるのと同じように、同胞団の組織・イデオロギーの解体の自由と両立するのか、ということである。
節目節目にコプト教徒を孤立させ、彼らをスケープゴートにするような傾向以外にも、活動家女性に対する強姦が、広範かつ半ば組織的に行われることで、国民の関係はこれまで以上にもてあそばれ、事態は悪化の一途をたどることになろう。
以上のような事態は、おおむねオリエント的様相に似ている。ここにおいて、私たちは、昨今の多数の国家の権力者たちが、自らの国を掌握することも、支配することもできないという状況を目の当たりにしている。エジプトでもこのことが正しいとするなら、私たちは、自明だと考えてきた多くのことを見直さねばならない。アズハル出身者であるかどうかはさておき、善意によって亀裂の修復など行い得るものではない。軍人によって他の種類の「イニシアティブ」を発揮することが恐れられるなか、こうした相互矛盾は凍結され、次の世代、ないしはその次の世代へと先送りとなるのだ。
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( 翻訳者:丸橋遼太 )
( 記事ID:29102 )