アルバニア、サーミーの墓の移転とテペデレンリ・アリ・パシャの首の「返還」要請
2013年02月11日付 Zaman 紙
アルバニア共和国のサリ・ベリシャ首相は、公正発展党イズミル選出議員でありアルバニア友好団体会長のルファト・サイト氏に対し、アリ・サーミー・イェンの父シェムセッティン・サーミーの墓とオスマン帝国時代に処刑されたテペデレンリ・アリ・パシャの首をアルバニアへ移してほしいと伝えた。この興味深い要望は、公式訪問中に行われた二者会談の際に正式に伝えられた。
バルカン諸国訪問の一環として、アルバニアとコソボを訪れたイスメト・ユルマズ国防大臣とトルコ・アルバニア友好団体会長でAKPイズミル選出議員のルファト・サイト氏は、アルバニアでサリ・ベリシャ首相およびブヤル・ニシャヌ大統領と、コソボではハシム・サチ首相およびヤクプ・クラスニチ国会議長と会談した。
会談の際、アルバニアのサリ・ベリシャ首相は、イズミル選出のサイト議員に対し、アルバニア出身で、アリ・サーミー・イェンの父であり最初のトルコ語辞典の著者であるシェムセッティン・サーミー(サーミー・フラシェリ)の墓をアルバニアに移転することを要望した。またベリシャ首相は、オスマン帝国時代に首をはねられ処刑されたテペデレンリ・アリ・パシャ(訳註:ヤンヤを拠点にしたアルバニア系アーヤーン)の、盆に載せられイスタンブルへ送られた首を、アルバニアに返却するよう求めた。テペデレンリ・アリ・パシャは1822年にマフムート2世によって処刑され、遺骸は首とは別にアルバニアの墓で眠っている。パシャの首がアルバニアへ送られることになれば、191年ぶりに身体と再会を果たすことになる。シェムセッティン・サーミーとテペデレンリ・アリ・パシャの墓の移転を求めているベリシャ首相は、選挙を前に民族主義的な有権者の票の獲得を目指していると見られる。
■「正式文書は外交文書の形でトルコへ送られた」
AKPイズミル選出議員でトルコ・アルバニア友好団体会長を務めるルファト・サイト氏は、この件について次のように語った。
「コソボのハシム・サチ首相とヤクプ・クラスニチ国会議長、アルバニアのサリ・ベリシャ首相とブヤル・ニシャヌ大統領と会談した。四日間のバルカン訪問において、私はトルコ・アルバニア友好団体の会長として、イスメト・ユルマズ国防大臣に同行した。アルバニアでは大変興味深い出来事があった。アルバニアのサリ・ベリシャ首相が、最初のトルコ語辞典の著者であり、同時にガラタサライ・スポーツクラブの創設者アリ・サーミーの父でもあるアルバニア出身のサーミー・フラシェリ(シェムセッティン・サーミー)の墓をアルバニアへ移転するよう我々に望んだ。さらにオスマン帝国時代に斬首処刑されたテペデレンリ・アリ・パシャの首も求めている。これはとても興味深い要望である。我々はシェムセッティン・サーミーの墓のアルバニアへの譲渡と移転に関する要望をうけたまわった。これに関するアルバニア側の正式文書も外交文書としてトルコ側へ送られたということも承知している。この件についての決定は国会が下す。しかしサーミー・フラシェリとして知られ、アリ・サーミー・イェンの父であるシェムセッティン・サーミーの墓の移転については、存命中の遺族の意向が大変重要である。必ず彼らの意見も聞く」。
アルバニアの歴史において重要な役割を果たしたシェムセッティン・サーミーの兄弟ナイムとアブデュル・フラシェリはアルバニアの墓で眠っている。
■テペデレンリ・アリ・パシャ
オスマン帝国下のヤンヤの知事(ヴァーリー)であったテペデレンリ・アリ・パシャは、息子たちとともに独立国家の建設を試みたため、マフムート2世によって解任された。処刑の決定が下ると、武装蜂起したため銃殺された。その後斬首され、首はイスタンブルに送られた。
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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:29228 )