さあ村に戻ろう、建設はTOKIに頼もう
2013年03月30日付 Radikal 紙


3月21日、ディヤルバクルでのネヴルーズの祝賀でアブドゥッラー・オジャランがPKKに対して行った「撤退」の呼びかけは、1980年以降村々を空にせざるを得なかった400万人に希望をもたらした。

移住者社会支援文化協会(Göç-Der)のイルヤス・エルデム会長は、村に帰る人々にとっての最大の障害は治安に問題があることであり、新たな平和プロセスの成功のためには集団帰村計画が即座に実行されることが必要であると述べ、政府による新たな帰村計画策定のための提案を行うと述べた。

イルヤス・エルデムGöç-Der会長は、トルコにおいて治安問題によって発生した強制移住が武力衝突を引き起こし、帰村のためにはPKKの撤退と同時に一刻も早い軍事作戦の停止が必要であると述べ、「近年クルド問題解決のため双方から歩み寄りが見られる。PKKの撤退が行われた後、トルコ軍の軍事作戦も停止されて安全な環境が整えられなければならない。武器の影での帰村は考えられないからだ」と述べた。

エルデム会長は、帰村を阻むもう1つの障害は、村落防衛隊制度と地雷の存在であると述べ、次のように話した。「放棄された村々に定住した村落防衛隊たちは村を捨てた人々の土地を与えられている。そのため、村落防衛隊制度が必ず廃止される必要がある。Göç-Derとして、村落防衛隊制度の廃止に努めている。もう1つの問題は、これらの地域に地雷があることだ。現在、放棄された村周辺は地雷だらけだ。地雷がある限り、人々は帰村を望まない。」

■TOKİが住宅建設を

エルデム会長は、トルコ全国に暮らす400万人の人々が自分たちの村に帰るためには、平和だけでは不十分だと述べ、次のように続けた。「約30年間自分の村を見ることができなかった人々がいる。400万全員が村に帰ることは実際のところありえない。しかしながら、忘れてはならない点がある。平和だけでは帰村には不十分ということだ。政治的問題だけではなく、社会学的問題も帰村を阻む大きな要因となっているからだ。これらの村の多くは、インフラ問題を抱えている。これらの村には学校や電気、道、診療所といった人々に奉仕する要素がひとつもない。これらなくして人々は帰村を望まないだろう。そのため、これらの問題が乗り越えられないまま行われる帰村計画は、成功したとしても恒久的なものとはならない。例えば、村人たちが以前住んでいた家はすでに破壊されている。しかしながら、移住した人々の子供たちの経済状況は悪く、家を再建する状況にはない。例えばここで集合住宅局(TOKİ)モデルを利用することができるだろう。TOKİは家を破壊された村人たちのため家を作ることができる。」

■村は射撃場になった

夏にシェムディンリで発生した武力衝突によって、村を放棄せざるを得なくなったイイトレル村の住人アブドゥルジャッバル・カプランさんは、「我々は近年の進展を追い、平和プロセスを支持している。夏にシェムディンリで発生した武力衝突によって、私たちは畑や果樹園を捨て、村を放棄せざるをえなくなった。約7ヶ月間も村に帰れていない。私たちが村を離れた少し後に、村は軍によって射撃場が作られた。村に帰るためにはまず、地域で起こっている軍事作戦が停止されなければならない。村のすぐ近くで衝突が起こっている状況で、村に帰ることは不可能だ」と述べた。

■以前の計画は失敗に終わった

シュルナク、ハッキャーリ、ディヤルバクルを始めとして、1980年以降東南部の県では約4000の村が放棄された。その後、まず1994年にタンス・チルレル政権は「中央村」計画の名の下、帰村計画を始めた。チルレル政権はこの計画のための資金援助を欧州評議会から受けられず、その後計画を棚上げにした。1995年に二度目の帰村計画が宣言された。しかし帰村計画のために必要なインフラが整備されなかったため、実行に移されることはなかった。直近では1999年3月に、「帰村復旧計画」の名の下ある計画がまたしても策定された。必要とされる安全な環境とインフラの整備が行われないまま計画された3つ目の帰村計画も、まったく成功しなかった。

(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:29585 )