アゼルバイジャン、イランの歴史遺産を横領:フェルドウスィー財団が反論
2013年04月28日付 Mardomsalari 紙


 フェルドウスィー財団は、アゼルバイジャン共和国による〔イランの〕歴史の横領に対して反論した。

 イラン学生通信の報道によると、フェルドウスィー財団は報告の中で、次のように指摘している。

アゼルバイジャン共和国がイランの精神的・歴史的遺産の占有を試みるようになって、しばらくになる。現在のアゼルバイジャン共和国は文化的イランの一部であると見なされ、約100年前は大イランの政治地理の一部と考えられていたにもかかわらず、新興国である同国は自らの文化創造のために、イラン人の貴重なる遺産を自らの名前の下で、世界に周知させんとしている。

 アゼルバイジャン共和国は国際機関であるユネスコに楽器「タール」を自らの名の下で登録したのに続き、イラン人としての本質を有し、そのすべての作品をペルシア語で著し、その栄誉はイランの歴史的物語を詠い上げたことにあるハキーム・ニザーミー=ギャンジャヴィー〔※〕をも、自らの名の下で、学術界・文化界に紹介しようと画策しているのである。

※訳注:ニザーミー=ギャンジャヴィーは12〜13世紀のペルシア語詩人で、『ホスローとシーリーン』『ライラーとマジュヌーン』などが有名。彼は現アゼルバイジャン共和国領内にあるギャンジャで生まれ育った。

 これに関連して、しばらく前、アゼルバイジャン共和国の注文によって、ハキーム・ニザーミーの彫像がイタリアの首都に設置され、この偉大なるイラン人詩人がアゼルバイジャン人として紹介されるということが起きた。

 さらに、ここ数ヵ月間のアゼルバイジャンによる歴史創造行為の一環として、一部の韓国の大学教授らが、同国で最も信頼されている某刊行物のコラムにて、歴史を歪曲する論文を執筆するという出来事も起きた。

 こうしたことから、フェルドウスィー財団の代理として、同財団の理事の一人で、芸術アカデミーの伝統芸術グループ長を務めるセイエド・アブドルマジード・シャリーフザーデ博士による的を射た反論が、在韓イラン大使館の要請により、「コリア・ポスト」誌に英語にて掲載された。

 文化を愛する人々、そして国の文化行政の責任者たちに知らしめるべく、コリア・ポスト誌掲載の「ニザーミーのイラン人としての本質」と題された、セイエド・アブドルマジード・シャリーフザーデ博士のコラムの全文を、以下に紹介する。


慈悲深く慈愛あまねき神の御名において
鍵は賢者(ハキーム)の財宝(ギャンジ)にあり〔※〕

※訳注:この二行は、ハキーム・ニザーミー=ギャンジャヴィーの『神秘の宝庫』の出だしの文句。

「ニザーミーのイラン人としての本質」

 知識人、学者、詩人、神秘家、哲学者、その他この種の方々はすべて、彼らがどの言語を用いていようと、現在、彼らの同胞に数えられる人々の精神的保護者である。

 もしある人が、ある一つの大部族のリーダーの子孫で、現在その大部族から独立を果たした上で、自身の名を冠した独立した部族を立ち上げたいというのであれば、彼にそのことでとやかく言うつもりはない。しかし、小さくなったとはいえ、依然として限られた範囲で存在しつづけている当の大部族の精神的栄誉や遺産を接収し、自らの名の下で〔世界に〕紹介するといった行為は正しいことと言えるだろうか?

 かつて大きな国の一部であったものの、その後争いや戦争、協定などによって、その巨大な国から離れ、別の国に合流し、歴史や文化、文学、哲学、そして神話などについてもっていたもの全てを手放し、今初めて独立を成し遂げたような小国家が世界中に誕生しているが、そんな彼らが今になって、自らの国民アイデンティティを創り上げるために、あらゆる行為に手を染めているのは、実に残念である。

※訳注:19世紀にイランを支配していたガージャール朝とロシアによる2度にわたる戦争の結果、協定によってイランからロシアに割譲・編入され、その後ソ連邦の崩壊によって独立を果たした、アゼルバイジャンをはじめとする旧ソ連邦の新興諸国を念頭に置いている。

実際、共産主義国家ソ連邦の遠大なる政治・文化的プロジェクトの一つに、イラン北部と中央アジアに別々の国民を創り上げ、彼らの地域的な連帯を阻止するというものがあった。ソ連はこの地域の諸邦を、一種の民族対立に陥らせていたのである。

 その上でまず、〔ソ連は〕これらの地域の人々を一つの独立した国民だと宣言することで、彼らに文化的・言語的・文学的独自性への興味を煽り、それぞれに対して文化的・文学的象徴を与えたのである。

 アゼルバイジャンについて言えば、ニザーミーが選ばれ、彼が同国民にアイデンティティを与える人物と見なされた。しかし、ニザーミーは一イラン人と見なされていたことから、現在アゼルバイジャンに居住する人々(つまりトルコ語を母語とする人々)の民族性と、ニザーミーの民族性とが比較照合される必要があった。結果として、ニザーミーをトルコ人であると示し、トルコ人であると紹介するための文化的・文学的活動が開始され、拡大していったのである。徐々に、ニザーミーがトルコ人であるということが同地の人々に信じられるようになり、同地の研究者たちもこのことを証明する作業に取りかかるようになっていった。

 このことについて残念なのは、汎トルコ主義集団に属する、多くの狂信的な人々が、トルコ人であることを自ら告白するような内容の詩をニザーミー作として偽造し、これまでにないような嘘を積み重ねることで、こうした誤った信念を広めようと努力していることである。

 トルコ語で詩を作り、ニザーミー作によるものだと称する者がなかにはいる。しかし、写本学の知識をもってすれば、こうしたことが嘘偽りであることは簡単に証明されることである。




※訳注:上記記事の元となった、イラン学生通信の記事(http://isna.ir/fa/news/92020704339/)に引用されたシャリーフザーデ氏の議論は、ニザーミーがイラン人であることを証明する、幾分詳細な内容となっているが、上記記事は(紙幅の関係からか)後半部分を無理矢理省略してしまっている。そのため、ニザーミーがなぜイラン人だとシャリーフザーデ氏が信じているのかが、上記の記事ではほとんど見えてこない。そこで後半部分の要点のみをごく簡単にまとめてみると、次のようになる。

1.ニザーミーの詩は全てペルシア語による。彼がトルコ語で書いたとされる詩は、ニザーミー=ギャンジャヴィーの詩ではなく、オスマン朝時代の「ニザーミー=グーナヴィー」の作である。

2.ニザーミーは詩の中で、自らの母親が「クルド人」であると認めている。それゆえ、彼はトルコ系ではなく、少なくとも(イラン人の一系統である)クルド系である。

3.アゼルバイジャンという地名は、アケメネス朝滅亡後、ギリシア支配から脱する際にメディア地方で活躍した司令官Atpopatに由来する。Atpopatはこの地では、Atropateneと呼ばれる。atrはアヴェスター語に由来し、中期ペルシア語ではādurとなり、後にāzarに変化した。さらにpatは古代ペルシア語で、後のペルシア語のpāyīdan(守る、見張る、の意)と同じであり、pがbに変化した。つまり、「アゼルバイジャン」(āzarbāyjān)のうち、āzarbāyまではペルシア語であり、よって「アゼルバイジャン」という地名はペルシア語由来である。それゆえに、アゼルバイジャンはイラン固有の地である。だから、同地出身の過去の偉人たちはイラン人と見なされなければならない。

4.ニザーミーは詩の中で、敬意と愛着を持って「イラン」という語に何度も言及しているが、「アゼルバイジャン」なる語は彼の詩には見当たらない。

Tweet
シェア


関連記事(「モウラーナーがイラン人であることに議論の余地はない」:モウラーナー生誕800年記念国際会議での記者会見で)
原文をPDFファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:ペルシア語記事翻訳班 )
( 記事ID:29848 )