2009年に、「ダーウィン年」のために雑誌の表紙にダーウィンを選んだアタクマン教授は解任され、勤務評定を落とされ続けた。アタクマン教授は、法廷闘争に勝利した。
トルコ科学技術研究機構(TÜBİTAK)が『科学技術』誌に対して全体指針を作成した2009年、「ダーウィン年」のため雑誌の表紙をダーウィンを選んだチーデム・アタクマン教授の身の上にふりかからないことはなかった。雑誌の内容に干渉し、変更した後、アクマン教授は、解任され勤務評定を落とされ、この件に関し規律委員会に諮られ、資料保管室に転任となった。彼女が2011年に圧力を受けて辞職すると、支払給料の差額を理由に、自宅に差し押さえの役人が送られた。アタクマン教授は、この一連の行政措置につきそれぞれ個別に裁判を起こし、勝訴した。
進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンの生誕200年と、『種の起源』の出版から150年を理由に、ユネスコの推奨で2009年は世界中で「ダーウィン年」が祝われた。アタクマン教授も、このためにトルコ科学技術研究機構の、2009年3月発行の『科学技術』誌の表紙をダーウィンとした。 しかし、発行段階でうけた干渉により記事は雑誌から外された。
■解任では足りない
誌の総編集長であるアタクマン教授は、この職務と、代表をつとめる科学社会局局長職から解任された。この件に関して、トルコ科学技術研究機構内で内部調査が開始された。トルコ科学技術研究機構は、国内外の世論を惑わせたとの理由で、アタクマン教授に職位変更を課した。
解任されたアタクマン教授は資料保管室に異動となった。同教授は、自身が受けた処罰と異動に対して法廷に訴えた。にもかかわらず、アタクマン教授は復職できず、2年間、一切仕事が与えられなかった。こうした彼女に対し、同機構は、彼女の出退勤時間と勤務を監視した。アタクマン教授は、2012年12月にこうした扱いに耐えられず、勤務契約を正当な理由で解消した。
アタクマン教授は、離職届にニュケト・イェティシ氏とオメル・ジェバジ氏の指揮下にある以前の科学技術研究機構の執行部が、彼女の政治的な立場と思想信条を理由に処罰をおこない、組織的に本人を怖気づかせる措置を行ったと述べ、「約3年の間、威嚇行為に晒された労働者は、憲法が保障する精神的自由を保つことは不可能だった。この過程で、心理面で大いに消耗したために、心理的な支援を得ざるを得なくなった。しかし、こうしたストレスとストレスから逃れる力は残っていなかった」と語った。
トルコ科学技術研究機構の新執行部は、アタクマン教授について任意で辞職したように処理し、この理由で支払給与の差額を支払うよう命じた。さらに差額を差し押さえる行政執行措置にうったえた。
■法廷闘争の勝利
アタクマン教授は、4年続いた困難な過程に勝利した。トルコ科学技術研究機構に対し4件の別個の訴訟を起こした。自身に与えられた懲罰は行政裁判所第一二法廷及び行政裁判所行政措置担当局によって停止された。第一二行政裁判所は懲罰を全面的に取り消し、科学技術研究機構の調査は適正ではないと指摘した。
ケメル・ヴラドアン弁護士が担当するもう一つの裁判は、アタクマン教授の解任に関するものである。この訴訟も、行政裁判所がアタクマン教授に対して不利な判決を下したにも関わらず、行政裁判所第五法廷は、アタクマン教授の管理者の職位を奪い、専門家の職位で資料保管室に異動させた措置ついて「公的利益と職務上の妥当性がないことを明らかにして」、行政裁判所の判決を棄却した。
■勤務評定は無効に
アタクマン教授に与えられた勤務評定の下落は、アンカラ第15行政裁判所により無効となった。教授の辞職後、実施された行政執行に関する訴訟は今も続いている。アタクマン教授は、2011年12月以来中東工科大学集落考古学部門の教育メンバーとして学術的な生活を続けている。
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( 翻訳者:澤井祥子 )
( 記事ID:31022 )