ジャン・デュンダル、ミッリイェト紙から追われる
2013年08月01日付 Milliyet 紙

このところ紙面に登場していなかったミッリイェト紙の主要コラムニスト、ジャン・デュンダル氏がミッリイェット紙を去った。

デュンダル氏は、ミッリイェト紙経営陣から解雇を言い渡された。ニュースサイトGerçekgündemの報道によると、今日15時半に本人に通達されたという。これまでもデュンダル氏が解雇されるという情報はあり、本人も外国の報道機関とのインタビューで、3週間記事を送っているが掲載されないと明かしていた。今回の解雇について、デュンダル氏は自身のサイトで以下のように綴っている。

圧力の結果が出た;まずデルヤが去り、次に私、そして残骸を引き継ぐのは(最後に残ったのは)フィクレトだ。
 先週、イスタンブルのお気に入りのテラスに我々は集まった。私とデルヤ(セザク)とフィクレト(ビラ)だ…。30年間、ある時は肩を並べて、ある時は背中を向けて、同じ道を歩んできた3人の新聞記者だった。親から財産を受け継ぐでもなく、仕事で誰かのお膳立てがあったわけでもなく、全て自分の努力と忍耐と熱意で、今の地位に登りつめた3人の同志だった。活字メディアの中で別々の分野にいながらも、互いを追いかけながら、注目し、飛び越えながら、切磋琢磨してここまで来た。3人とも、9月12日(80年クーデター)の悪夢はアンカラで経験した。諮問会議を議会に迎え入れた。解散した政党、失脚したリーダーたちを目にすることとなった、すなわち弾圧や、圧政を目の当たりにした。80年クーデター時は検閲をくぐり抜けようと苦心し、2月28日プロセスでは「魔女狩り」を進め、首を欲しがる軍に抵抗していた。
今の仕事以外の仕事を見つけることもできず、前例のない仕事をして大きな財産を築くでもなく、道を大きく外れることもなく、これまで来た。そして何十年ものちに同じに新聞で再会を果たしたのだ。デルヤはほとんど人生を費やした新聞の編集長であった。フィクレトはアンカラ城の塔(アンカラ支局長)になり、私は新聞の端(コラム)に…。この9ヶ月間、いい仕事ができた。いいニュースを発信し、いい記事を書き、いい報道ができた。
もちろん、間違いもあった…。それについても我々は互いに忠告し合い、議論した。あの夜が、新しい分岐点だった。イスタンブルのお気に入りのテラスに吹く夏の風よりも、より深刻な嵐の中にいた。今度は、私服を着ているが結局は昔と同じ、新しい「魔女狩り」が始まったのだ。我々の前に多くの同志が犠牲になり、今度は我々の番だった。

 我々にとって素晴らしい、新聞記者としての醍醐味を味わえるようなこの9ヶ月間の仕事は、「イムラル報告書(オジャラン・BDP会見記録)」にしろ、ゲズィ公園抗議運動の報道にしろ、新聞の敵対的態度は、政府を不快にさせるきっかけであった。我々は、真の新聞記者として「イムラルでの交渉を明らかにしたのは我々だ」「我々はゲズィ公園でも、カイロでも、事態の中心にいる」と喜ぶ一方で、その代償があることも当然ながら気づいていた。これまでの報道関係者、何にでもイエスとは言わない記者たちが迎えた結末が、我々を待っているのだ…。首相が演壇で「そんな新聞はなくなればいい」と言ったことは、単なる願望ではなく明確な指示であった。そのために動員された大臣たち、顧問たちの電話攻勢は、スポンサーをうんざりさせた。電話に耳を傾けず、やるべきことを実行しなければどうなるかは明らかだった。そしてついに、圧力の結果が出た。
まずデルヤが去り、そして私…。残骸を引き継ぐ(最後に残った)のはフィクレトだ。

 今日の午後、エルドアン・デミルオレン氏からの電話で解雇されたことを知った。かなり前から覚悟しており、驚きはなかった。会話の詳細をここに書くのは適当ではないだろう。そもそも理由は皆知っているはずだ。私が初めてではない。そして最後でもないだろう。この仕事に30年を費やしたデルヤ、フィクレト、私。我々はどうでもいい。重要なのは次のことである、すなわち我々の仕事だけでなく、この仕事の存在自体が失われようとしていることだ。関係者にも多くの犠牲者を出すことになろう。
 しかし歴史書というものがある。そこには、どんな不当な圧力も、正当な声を押さえつけ完全に黙らせることはできないと書いてある。新しい流れの中で、我々は再会し再び筆をとって語り合うつもりだ。自由な国と自由なメディアを確立するまでは…。

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( 翻訳者:湯澤芙美 )
( 記事ID:31042 )