2020年のオリンピックまであと7年ある。この間に、難なくエリートスポーツ選手を育てられるかもしれない。 しかし現在の教育システムでは成功は難しいだろう。なぜだろうか?
■教育システム
教育システムとスポーツ選手育成システムは相互に調和し合わなくてはならないが、完全に齟齬をきたしている。
例えば、ひとりのスポーツ選手がオリンピックで成功を収めるためには、少なくとも1万時間の練習を行う必要がある。しかし、現行の教育システムでは学生がこれほどの時間を確保することは困難である。
新たにスポーツを始めた学生は、週最低20時間の練習と、年間最低3つのトーナメントをこなす必要がある。三週間継続して行われるトーナメントも存在する。週40時間学校へ行く生徒は、どうやってこの時間を確保できるのだろうか?
■スポーツがもたらすもの
こうした齟齬状態のせいで、多くの学生たちがスポーツと教育の間で選択を迫られる。 スポーツをしている多くの生徒は、スポーツを諦める。なぜなら、スポーツ選手となることは、社会的に価値がないとされているからだ。ほんの一握りの人しかスポーツで稼ぐことができないのだ。
大学でスポーツ奨学金をうけている学生の数は非常に少ない。 教育を諦め、スポーツ選手として成功した生徒はいるのだろうか?いるのである。しかし、その場合は「無学のスポーツ選手」数が増えているにすぎない。「まずは人間性、その後にスポーツ」という認識を放棄しているのだ。
■発育文化
さらに、学校とスポーツ間での齟齬のせいで、子供たちは基礎教育とスポーツ教育を別々の場所で受けている。 こうだから、生徒たちは二つの分離した文化の中で存在しようとする。 しかしながら完璧性、全体性とはひとつの発育文化の中で育まれる。 ダ・ヴィンチは、基礎教育と芸術教育の両方を、師匠ヴェロッキオの工房で学ばなかったならば、今日彼の名を聞くこともなかったかもしれない。
では、スポーツ選手たちはどのように育てていけば良いのだろうか?
■全般的教育
バヌ・イェルコヴァン氏(Radikal紙記者、かつ、NTVコメンテーター)は、ひとりのスポーツ愛好家として、トルコにおける健全なスポーツ文化の醸成に尽力している。
「ヨーロッパ諸国では、スポーツと基礎教育を同じ学校で教えているところがほとんどだ」とバヌ氏は語る。
生徒たちは、昼まで基礎教育を受けてから、午後はスポーツ教育受ける。そして、練習に励む。 学校では全生徒が、ひとつの発育文化の中でスポーツを通じて教育を受けている。
成績に問題のある子供たちは、練習することもできない。教育が、スポーツを理由に放棄されていない。我々の固い教育の仕組みは、残念ながら、この種の柔軟な仕組みを採用しないのである。
■時が来た
すでにその時は来たのだ。教育の仕組みは、この種の柔軟な仕組みを採用すべきである。 もう一度はじめから作り直さなくてはならない。教育に関する既存の知識や前提を再度見直さなくてはならないのだ。
このため、国民教育省(MEB)に責任がのしかかってくる。 国民教育省(MEB)がこれに踏み出せば、その時こそスポーツを含めたどの分野においても成功を収めるだろう。
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( 翻訳者:加園千尋 )
( 記事ID:31108 )