「おしん」から30年:日本の経済発展のモデルは2010年代イランの子供たちにとっての道標(3)
2013年10月10日付 Mardomsalari 紙
「おしん」の青年期の声を務めたマルヤム・シールザードの話
このドラマで声優を務めたことは、私にとって貴重な経験でした。このドラマの吹き替えの監督を務めたのは
ジャーレ・オロヴさん〔※イランのベテラン女優・声優〕で、彼女は優しい母親のように、仕事の間ずっと私をサポートしてくれました。私は彼女から多くのことを学び、彼女から習ったこと全てについて感謝しています。このドラマの吹き替えをしてから何年も経ちますが、にもかかわらず、多くの思い出が私に残っています。実際、〔今の〕私はジャーレ・オロヴさんが重ねてきたご苦労に多くのことを負っているのです。彼女は私だけでなく、その他の声優さんたちをも母親のように導いてくれました。いつも私たちを勇気づけてくれました。私たちは彼女のサポートの下で、よりよい仕事ができるよう努力したのです。〔‥‥〕
ドラマ『おしん』の吹き替えが行われるまで、私は主に子役の声優をしていました。『家を離れて幾年月』〔※『おしん』のペルシア語タイトル〕が吹き替えられた時に、吹き替えの世界での私の活動は6年目になっていました。当時、私はおしんの青年期の声ではなく、彼女の子供時代の声を務める予定となっていました。
あの頃、主人公の声役というのは簡単に与えられるようなものではありませんでした。声優が主人公の役をこなすのに必要とされる多くの経験を積むには、少なくとも15年は必要でした。しかし、私はジャーレ・オロヴさんのおかげで、おしんの役を担当することができました。実際、この親愛なる先生の激励とサポートがあって、私はドラマの主人公の声を務めることができたのでした。
オロヴさんはラジオ演劇を通じて私のことを知りました。その当時の私にはあまり経験がありませんでしたが、神のご好意とオロヴさんの助けによって、私はこの役の吹き替えに成功しました。私は彼女を、ドラマの吹き替え監督のように感じることは、全くありませんでした。というのも、私たちの関係はむしろ、母と娘のようだったからです。
これほどの年月が経ってなおも、『家を離れて幾年月』が放映されるのは、とても嬉しいことです。もちろん、私が自分の役をしっかりとこなせていなかったことはわかっています。当時、皆様が私たちに優しい態度で、ドラマを見てくださいました。実のところ、ドラマを見る勇気は、私にはあまりありません。ドラマの中の自分の声が未熟なものであることを、私はわかっているからです。『家を離れて幾年月』の人気は、すばらしい吹き替えをしようと大変な努力をした、オロヴさんと私の仲間たちのお陰でしょう。
放送時間ともなると通りから人がいなくなる程このドラマが人気を博するとは、思ってもいませんでした。当時の私は若く、経験も足りませんでした。幸運にも、このドラマは人々から歓迎されました。このドラマがこれほどの年月を経てなおも人々を魅了していることを、私は嬉しく思います。
『おしん』が多くの歓迎を受けていたころ、私は「おしん」の名で知られていました。面白いことに、私が仕事で紹介されるたびに、「この女性は『おしん』の声の人だよ」と言われたものです。当時は誰も私を自分の名前では呼んでくれず、どの人からも「おしんの吹き替えの人!」と呼ばれていたのです。
『家を離れて幾年月』の吹き替えに心血を注いでいた頃、あらゆる感情とともにこの人物に代わって声を出すべく、私はおしんの生活の全状況を完璧に理解しようとしました。信じてはくれないかもしれませんが、私が泣く場面では、この人物とともに私も涙を流していました。私は総じて、吹き替えではテクニックではなくフィーリングを大切にしようと常に努力してきました。
このドラマの吹き替えには2年半かかりましたが、しかしとてもすばらしい日々でした。声優たち全員に対するジャーレ・オロヴさんの接し方がとてもよかったためです。他方、大物声優らもこの仕事に参加していました。言わば、この職業に骨身を削ってきた先生方の側で仕事ができたことは、最高の経験でした。というのも、私は彼らから多くのことを学ぶことができたからです。
吹き替えがある限り、学び経験しなければなりません。「吹き替え」という物語は決して閉じられることのない、最後の瞬間まで学ぶことのできる書物のようだと、私は思っています。声優が新たな映画で吹き替えをする時に自分自身に言い聞かせるのは、「今日の自分は昨日よりいい」という言葉です。だからこそ、この職業において学びは終わることはないと、私は信じているのです。
本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介されています。
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( 翻訳者:8410039 )
( 記事ID:31704 )