建設工事のためならモスクの破壊もいとわず
2013年10月27日付 Hurriyet 紙


「道路のためならば、なんでも犠牲になり得る。なぜならば、道路は文明だからである」とエルドアン首相は始め、さらに続けた。「モスクがあったとしても、道路がそこを通過するならば、私たちはそのモスクを取り壊し、別の場所に建て直す。」

[ボスフォラス]第3大橋と中東工科大学の用地を通過する道路に関する批判に対しての回答がこれである。「私たちはモスクさえ取り壊す」との発言に戸惑った人は多かった。しかし、首相は基本的にはこの国の政府の伝統を繰り返している。道路のために、広場のために、建物のためにモスクを取り壊す。イノニュ氏によって始まり、メンデルス首相によって続けられた伝統を。道路の建設のために多くのモスクが過去の遺物となった。[オスマン期の著名な]建築家スィナンの建築物でさえ。

首相の会見に支持を表明したアンカラ広域市長メリフ・ギョクチェキもこのことを認めた。「私たちはたくさんのモスクを取り壊してきた。道路が通るときには古いモスクを取り壊し、他の場所に新しいモスクを建てた。アンカラ北部都市化計画の中で13のモスクを取り壊した。」

モスクの数を数えるのは、最近の公正発展党政権時代から始めるとしよう。
2004年に公正発展党所属のデニズリ市長ニハト・ゼイベクチは、イバドゥラー・モスクとアルトゥントプ・モスクを市立チュナル広場計画のために取り壊すことを決定した。また、2000年代初頭に公正発展党所属の市長アスム・アイカンは、道路建設のためにトラブゾンのゼイティンリキ地区にあるゼイティンリキ・モスクを取り壊した。カフラマンマラシュの公正発展党所属の市長も、3年間で市の交通問題解決のためにクシュラ・モスクとサリヒイェ・モスクの取り壊しを決定した。

アンカラでのアフェットイシュレリ・モスクはというと、その場所にショッピングセンターを作るという理由で数カ月前に取り壊された。公正発展党所属市長のマ ラティヤ市は、店舗用地をオランダのACT社に2008年に売却した。ACT社は、用地の中にあるモスクをショッピングセンターのために取り壊した。デニズリ市は、建築後700年となるウルモスクも2002年に当時の正道党所属の市長アリ・アイギョレンによって新しいウルモスクを建築するという理由で取り壊した。アイギョレン市長は、その後公正発展党に籍を移した。サムスン都市化計画の中でチャイ地区の全てのモスクも取り壊された。

ゲブゼでは14世紀に建てられたイルヤスベイ・モスクは、他の場所にさらに大きなモスクを建設するため2010年に取り壊された。オク・スポーツクラブに賃借された土地に建設される予定の複合スポーツ施設ために、そこにあったモスクが壊された年は2011年であった。首相の希望でリゼのクブレ山にある100年以上 前に建てられたアヤネ・モスクは、都市森林計画のために取り壊された。

道路と都市化のために取り壊されたモスクの他にダムの底に沈んだモスクも加えることができる。最も注意を引くのは、ハルフェティの200年以上前に建てられたウルモスクである。森林水利相ベイセル・エロールの発表によると、ウルスダムのためにハサンケイフとその周辺の59のモスクがダムの底に沈む予定である。デニズリのアジュパヤムにある4つの村のモスクもサンダルジュクダムの底に沈む予定である。

■メンデレス政権時代に54のモスクが取り壊された

取り壊されたモスクといえば、最も有名なのがカラキョイにあるイタリア人建築家ライモンド・ダロンコによって建築されたカラキョイ・モスクである。このモスクが再建されることも話題になっている。

ワクフ総局長アドナン・エルテムは、今年の7月に行った発表でトルコ全土の150の失われたモスクを特定し、これらを再建する準備をしていると述べた。

この150のモスクのうち130がイスタンブルにある。多くはメンデレス政権時代に取り壊されたものである。その場所には、道路、広場、あるいは、その他の建築物がある。エルテム総局長は、「いくつかのモスクの場所には集合住宅さえ建てられていた。空地には再度モスクを建設する予定である」と述べた。

メンデレス時代に取り壊されたのは、収用のために壊されたモスクであり、多くはアクサライ・サラチハーネ地区である。1465年に建築された歴史的なムラトパシャ・モスク、オルチガーズィ・モスク、ファーティフ・スルタン時代から現存していたジャムジュラル・モスク、1555年に建築されたカザスケル・アブドゥラー・モスク、フィルズアー、アゼプレル、サラチハーネ、レヴァニ、ゼイティンジといった小モスク、ボイヌク・スジャエッディン・モスク、セクバンパシャ・小モスク、ミーマールアヤズ・モスク、ヴェリデ・モスクと墓である。

この時期に取り壊されたモスクの数は54にも上る。その中には、カラキョイにあるモスクもある。建築家スィナンが建築したスヘイルベイ・モスクと1878年に建築されたカラキョイ・モスクである。ヌスレティエ・モスクとクルチアリパシャ・モスクはというと、道路の建設中に破損している。一部は新たに作られた。1958年に道路工事の犠牲となったモスクのうち価値のある一つは、イェニカプの1479年に建設された歴史的なチャクルアー・モスクである。

■ファーティフ・スルタンのモスクはバヤルによって取り壊されたのか

次に海峡の周辺を見てみよう。ルメリヒサルにあるファーティフ・スルタン・メフメットによって建設されたフェティヒ・モスクの取り壊しに関しての言い伝えは 様々である。ヒサルの保存のための計画を提出した建築家のトゥルグット・ジャンセヴェルによると、モスクは、1950年代に大統領のジェラール・バヤルの命令で取り壊された。建築家のドアン・テケリによると、もっと以前に取り壊された。

他にも海峡周辺にあるモスクのうちの一つであるイェニキョイ公園の中にあるファズル・エフェンディ・モスクはというと、1958年に収用により取り壊された。ほかにトプチュ兵舎でも取り壊しがあった。セリム3世によって建設されたタクスィム・トプチュ兵舎にはスルタンの母親によって建設されたモスクがあった。ミフリシャフ・ヴァリデ・スルタン・モスクは、1940年に兵舎とともに取り壊された。

■大学のために取り壊されたモスク

アダナを例とると、私たちが見てきたように、破壊されたモスクはイスタンブルに限られない。特にモスク売却法の施行後1930年代から1940年代に多くのモスクが始めは倉庫として使用され、その後取り壊された。あるいは、道路建設のために収容された。この法律によって1928年 から1972年の間に2000以上のモスクと小モスクが取り壊されたと言われている。1928年12月8日付の6061号法の条項の中の規定は、 都市中心部で必要性のあるモスクの500メートル圏内にある、不要なモスクを売却し、管轄下から除き、国庫に収益を得ることを基本としている。

アンカラのウルスにあるカヴァクル(またの名をバクラジュババ)は、この法律によって取り壊されたモスクである。1298年に建設されたこのモスクは、一定期 間倉庫として使用され、その後取り壊された。木の門は、民俗博物館に展示されている。

同時期に建設されたウルスにあるクズルベイ・モスクは、1931年に取り壊された。クユル(ホジャパシャ)モスクはというと、1938年にヒュクメット通りの開通のために収用され、取り壊された。1941年に差し押さえされて取り壊されたモスクのうちの2つは、アブドゥラー・モスクとイブニギョクチェ・モスクであった。コユンパザル広場にあるアーザーデ宿の中にあるアーハン・小モスクは、ハーンとともに1940年代に取り壊された。アリベイ・小モスクは、1930年代に倉庫として使用され、その後取り壊されたモスクの一つであった。1942年からはその場所に店が建設された。

1938年に売却され取り壊されたモスクはというと、アクシェムセッディン・モスクとチチェキオール・小モスクであった。イーネリべルクス・モスクとコユンパザル・小モスクも道路の建設のために取り壊されたモスクである。ハジェッテペにあるクルデルビシュ・小モスクはというと、ハジェッテペ大学が建設される際に取り壊された。ブルサ銅像広場にあるサル・モスクはというとモスク付きの信徒がないという理由で1939年に取り壊された。 1450年に作られた歴史的なムカッデム・モスクは、ハスルジュラル通りを建設の際に、1981年に遺跡保護協会が別の場所に再建するという条件で取り壊したが、未だにこの計画は実現していない。トゥルジェ・小モスクはというと、1939年にハジュバイラム広場の整備中に取り壊された。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:31813 )