トルコ共和国建国者ムスタファ・ケマル・アタテュルクの没後75年目、アタテュルク廟をはじめとして国内外の各地で式典が開かれ偲ばれた。
アタテュルク廟での式典にはアブドゥッラー・ギュル大統領、ジェミル・チチェキトルコ大国民議会議長、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相、ケマル・クルチダルオール共和人民党党首、ネジデト・オゼル統合参謀本部長、各軍司令官ら、高等司法機関代表者ら、閣僚会議メンバー、政党代表者、軍関係者、市民らが参加した。
ギュル大統領と参列した代表団は、ライオンロードを行進した後、アタテュルクの霊廟に赤と白のカーネーションでできた花輪を供えた。国歌斉唱の後、ギュル大統領と代表団は国民協定の塔を通過して、アタテュルク廟特別記帳簿に記帳した。
式典の後、アタテュルクの墓を参詣するためアタュルク廟に市民が押し寄せた。
■ドルマバフチェ宮殿に訪問者殺到
ムスタファ・ケマル・アタテュルクがその人生を閉じたドルマバフチェ宮殿に、訪問者の波が殺到した。様々な県から市民や学生が訪問し、アタテュルクが永眠した部屋にカーネーションを捧げた。
死後75年経ってもムスタファ・ケマル・アタテュルクは敬意をもって偲ばれる。ドルマバフチェ宮殿の公式プログラムは、アタテュルクが人生の幕を閉じた時刻9時5分に黙とうとともに開始した。国歌斉唱の後、市民は訪問のために宮殿に誘導された。訪問者の通行は宮殿内にあるパーティションポールによって整理された。
宮殿の入り口で列に並ぶ数千の訪問者はセキュリティゲートでの混雑でもたついた。各県の学校から来た学生らは、教師の引率でアタテュルクの部屋を訪問し、カーネーションを供えた。
アタテュルクに似ていることで知られる俳優のギョクセル・カヤ氏も訪問者の一人だった。ムスタファ・ケマル・アタテュルクに見た目が似ていることで知られるカヤ氏は、彼に似た者や並ぶものは存在しないと述べた。(アタテュルクに)似ていることから俳優業を始めたと言うカヤ氏は、「ここにいる一番の理由は参拝ですが、二番目の理由はというと、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの病と死を含むショートフィルムをつくったからです。今月中に公開されます」と述べた。
参拝者の中には朝鮮戦争の退役軍人らもいた。
■ボスポラス大橋でアタテュルクを偲ぶ
11月10日、アタテュルク記念日ということで多くのオートバイドライバーが9時5分、ボスポラス大橋を通過した。市民はイベントに子供たちと一緒に参加した。ドライバーらは国道100号線に色とりどりの姿で現れた。
ムスタファ・ケマル・アタテュルク没後75周年は様々なイベントで追悼された。イスタンブルでは多くのドライバーが国道100号線に集まり、ボスポラス大橋を通過した。イベントでは特にバイクの運転手らが華やかさを添えた。イベントにはクラシックカー愛好家の姿もあった。
一方、警察の装甲車が橋の上で停止した。装甲車から降りた3人の警察官は橋の上で黙とうを捧げた。
(中略)
■アタテュルク、テッサロニキの生家前で追悼
ムスタファ・ケマル・アタテュルク没後75年目、生家の前でも追悼式典が行われた。ギリシャのテッサロニキ市での記念プログラムに、メフメト・ミュエッジンオール保健大臣と代表団が参列した。
記念プログラムは、アタテュルクが亡くなった9時5分、サイレンが鳴って始まった。黙祷の後、国歌斉唱が行われた。式典に参加したある市民の団体は、一斉に学生の誓いの言葉を読み上げた。
式典でスピーチを行ったテッサロニキ総領事のトゥルル・ビルテキンは、トルコ各地から訪れた市民に挨拶をし、その日の意味と重要性について言及した。
メフメト・ミュエッジンオール保健大臣も、アタテュルクが生活した家を見て希望と信頼を感じたと述べた。
スピーチの後、ミュエッジンオール大臣と代表団は、博物館に変えられたアタテュルクの生家を見学し、関係者から説明を受け、家や家財を丹念に見て回った。
(後略)
本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介されています。
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( 翻訳者:小川まどか )
( 記事ID:31939 )