《イマームと最高指導者の路線を支持する戦線》の総書記を務める
ハビーボッラー・アスギャル=オウラーディー氏が昨朝、神の呼びかけに答える形で、「永続者〔※神名の一つ〕の国」へと急ぎ旅立った。同氏はティール月〔6月22日〜〕から、心臓疾患が原因でテヘランの病院に入院していた。
同氏の子息であるアリーレザー・アスギャル=オウラーディー氏によると、同氏は月曜日の夜から状態が急変し、医師からも、もはや治療の手立てはないと告げられていたという。その時から昏睡状態に陥っていた同氏は、ついに昨朝、心臓発作を起こし、逝去した。
ハビーボッラー・アスギャル=オウラーディーは、1311年〔西暦1932/3年〕にテヘランで生まれた。
イスラーム連合党の創設メンバの一人である彼は、偶像崇拝体制〔=パフラヴィー王制〕に反旗を翻した、活動的な闘士の一人でもあった。
ファールス通信が伝えたところによると、アスギャル=オウラーディーは13歳の時に、闘争の世界に足を踏み入れた。アーヤトッラー・カーシャーニーの呼びかけでパレスチナ人への支持を表明するために行われたデモに参加して、逮捕されたのである。
1327年〔1948/9年〕、政治活動に入り込み、石油国有化運動をめぐる出来事について知り、当時開かれた集会やデモに参加した。イスラーム献身者協会(フェダーイヤーネ・エスラーム)の活動を知った彼は、1333年〔1954/5年〕にアミーノッドウレ・モスクで知り合った友人らと共に、宗教団体の設立を決意、文化的活動に進出した。こうして「モアイヤド会」〔※「神に承認された者」の意〕と名付けられた団体が創設され、アミーノッドウレ・モスクにて活動に従事し始めたのである。
イマーム・ホメイニーが指導するイスラーム運動の開始にともない、彼はホメイニー師と面識を得るようになる。彼は〔ホメイニーの住む〕ゴムとテヘランの間を行き来するようになり、イマームからテヘラン・バーザールでの資金集めの任を命じられる。地方議会法案承認事件〔※〕で、彼が率いるモアイヤド会とイマーム関係者との交流はさらに拡大し、これがきっかけとなって「シェイフ・アリー・モスク会」と「バーザール・エスファハーン出身者会」との連合が成立、「イスラーム連合会」が設立された。
※訳注:「地方議会法案承認事件」とは、1962年に解散状態にあった議会での審議を経ることなく、地方議会設立に関する法案がアサドッラー首相率いる内閣で承認され、法律となったことに反発した人々が起こした抗議運動のこと。この法律では女性参政権が認められ、また「イスラーム教徒であること」という従来の被選挙人の条件が削除されたことから、ホメイニーをはじめとする宗教界が反イスラーム的だとして一斉に反発した。
1343年〔1965年〕、イスラーム連合会は〔時の首相であった〕ホセインアリー・マンスールを暗殺した〔※〕。アスギャル=オウラーディーは連合会の軍事部門と共に、武器の入ったスーツケースを所持していた罪で逮捕され、終身刑を言い渡された。彼は1356年〔1977/8年〕に恩赦によって釈放されている。
※訳注:マンスール首相は駐留米軍に外交官並みの特権を付与する米軍地位協定を締結、それに反発して、自身を強く非難したホメイニーをトルコに国外追放したことがきっかけとなって、暗殺されたとされる。当時、当局は、「過激派」として知られていたフェダーイヤーネ・エスラームを暗殺犯と断定したが、その後イスラーム連合会が犯行を認めた。
彼はイスラーム革命の勝利後、国会の議席を得、さらに〔福祉機関である〕イマーム・ホメイニー救済委員会を設立、同委員会のイマーム代理の役職を得た。
1369年〔1990/1年〕に〔政党組織として〕イスラーム連合協会が設立されると、アスギャル=オウラーディーは同協会の総書記に選出される。彼はここ数年、政界の老師として、イスラームと革命の原理・原則に忠実な各政治集団〔※いわゆる「原理派」〕に対して団結を呼びかけてきた。中でも重要だったのは、最近の国会選挙で彼が見せた〔原理派を糾合するための〕努力だった。彼はここ数年、公益判別評議会やプレス監視委員会の委員も務めていた。
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本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介されています。
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( 翻訳者:ペルシア語記事翻訳班 )
( 記事ID:32032 )