アレヴィー派問題への見解-アフメト・ヤシャル・オジャク
2013年11月24日付 Zaman 紙
アレヴィー派とジェムエヴィの問題で今日まで様々なメディアでアレヴィー派自身やスンナ派のオピニオンリーダー、知識人、学者によってあらゆる方向性の様々な意見や提案が話し合われ、議論された。
先月はフェトゥフッラー・ギュレンの名前でアンカラのママク地区で「モスクとジェムエヴィが隣同士で」という名前で実行された計画は、スンナ派とアレヴィー派の世論の一部から肯定的に捉えられたが、一部からは批判され、さらには強く反対された。しかし一般的に見るとこのような計画は、トルコで「一部の外や内の層」によって引き起こされようと望まれていたと考えられる、アレヴィー派とスンナ派の衝突への完璧な返答になるという考えが大きく影響していることが認識されている。
大体1990年代から今までスンナ派とアレヴィー派のオピニオンリーダー、学者、アレヴィー派の財団や協会の代表者によって正しいまたは誤った情報に基づいて議論されるアレヴィー派問題は、まるでクルド問題のように、前例を見ないほどここ数年はまさにトルコの主要問題となった。どれほどアレヴィー派の一部に歓迎されずとも、その下で異なる目的が模索されているとしても、または様々な理由で批判され反対されても、政権が数年前に始めたアレヴィー派ワークショップが、「クルド問題解決策」とともにトルコの民主化の歴史において初めて重要な位置を占めたことは確かである。あらゆる予想にも関わらず、期待されていた形で肯定的な結果にたどり着けなくとも、この位置が非常に重要であるということを受け入れることが必要だ。双方の解決政策とも、一定の留保つきで、政権によって解決されることが望まれない、自分たちの利益のために使われているという推測を尊重するのは正しくないとみている。なぜならどのように解決するかは事前に推測できない危険なものであり、特に政権自身の支持層において明確な反発を受けることが可能なこのような二つの政策が単に政治的利益のために講じられたとするのは、説得的ではないと同時に、それほど論理的には見えない。
■解決が心から望まれてはいるが
アレヴィー派問題で政権はおよそ3年前に合計7つのワークショップからなる一連の会議を行った。スンナ派とアレヴィー・ベクタシ派の財団の代表者、オピニオンリーダー、作家、芸術家、新聞記者、学者がそれぞれワークショップという形で一堂に会した。アンカラのクズルジャハマムに集まった最後のワークショップでは、以前のワークショップで出た結果が議論され、報告書と共に出版された。筆者も参加した第二回目と最後のワークショップでアレヴィー派とスンナ派の一部の参加者が示した態度や行動、議論で用いられた表現やスタイルは、[問題解決とは]全く疑いなく別の問題である。この文章では参加者の大半が問題の解決に向けた現実的で具体的な提案を提示するよりも、自身の支持基盤にメッセージを送り、自分たちを前面に出す目的で非妥協的、先入観、強情張りな態度を示したこのおかしな[会議]光景を議題にはしない。ただ政府を代表する人たちと、両者の一部の参加者がどれほど善意をもっていて我慢強かったかを、問題の本当の解決をどれほど真剣に望んでいたかを強調することで満足しよう。
まるで40年ほど前からいまだに続いているかのようなアルメニア問題と1980年代から表面化したクルド問題同様に、1990年代からアレヴィー派問題において国を代表する人たちを筆頭に、異なるいくつかの関係筋が唱えるテーゼが間違いであることは、当初は識者によって知られ今日改めて認識され始めている。このことは本来トルコがこれやこれに似た問題で、国際関係において本当の意味で健全な学術的知識の蓄積を欠いていたことを示す歴史的かつ現実的な問題だ。政権は何年もこの問題で知識を尊重する代わりに、拙速な観察や情報に頼った国政を行ってきた。しかしこうした政策は、トルコをこれらの問題から救うのに決して十分ではなかった。絶えず歴史的な真実を隠し、そこで主張を繰り返すにつれ一連の筋の通らない議論を生み出すだけとなり、問題の解決を考えるが解決できずに今日まで来たトルコについて言及しているのだ。
このトルコとは、健全な学術的研究に基づいた政策を構築する代わりに、近年までイデオロギー的な知識や行動の支配のもとで歩むことを放棄しない、学問を飾りとしてしか使わないトルコのことである。我々が並べたこの三つの基本的な問題においても、欧米の新聞や雑誌から取ったニュース、読んだ論文に基づいて自身のイデ オロギー傾向に沿った意見を生み出し、これを受け入れさせようとする一部の物書きがこのトルコに道を示す努力をしていた。この袋小路の石を自身の手で自身の道に敷き、共和国当初から学術的な歴史を尊重する代わりに、自身が作り上げた虚構の歴史を尊重し、諸問題にこの方向で対処しようとしたのは、 ほかならぬトルコ自身である。この理由から、トルコが同じ道を行く限り、あらゆる内部問題を今日まで国際社会の干渉に自身の手で引き渡したように、アレヴィー派問題も自身の手で引き渡そうとしている。
我々からすれば、何よりもまず行われるべきなのは、以前に他の機会に述べたように、アレヴィー派問題を理論的な問題として見ることをすぐにやめ、問題を (ジェムエヴィ問題はこの主要問題から派生した一部であるのだが)歴史的、社会学的観点から取り上げ、解決しようと努めることである。アレヴィー派問題を 「アレヴィー派というのがアリーを好むということなら、そのように生きなければならない」という論理で価値判断すること、アレヴィー派をこれに沿わせようとすることは正しい方法ではない。この論理の主要で不変な目標は、アレヴィー派をどうやって「正しい道」に、つまりスンナ派イスラムに含めるかということだった。 さらにはある財団組織によって不必要に贅沢で、しかしうれしくない形で印刷・出版され続け、しかし学問の観点から多くの誤りと欠点があり、問題と事実を歪曲により隠そうとするアレヴィー派基本資料の出版に向けたシリーズ[作成]の主な目標はこれだった。
■アレヴィー問題における根本的な誤り
長年アレヴィー派問題で神学の観点から本が書かれ、論文が出された。しかしアレヴィーのアイデンティティとアレヴィー派が[いかなる]精神・信仰の世界に影響を受け、どのような歴史の中から現れてきたのかを理解しようとは努められなかった。逆に、アレヴィー派を怒らせるような、アレヴィーの定義を作り出し続けた。まさに根本的な誤りはまさにこれだった。なぜなら彼らは当然ながらスンナ派がアレヴィー派を定義すること、定式化することが間違いであると考えているからだ。 こうした誤りは、アレヴィーを「アリーなし」にし、1960年代の戦闘的な左派の流れの誘導でイスラムとのつながりを断ち切って発展する流れを強くし、自身をイスラムの枠組みの中で扱う伝統的なアレヴィーの層を、そしてそのアイデンティティを弱体化させた。この流れは、今も特にドイツ、フランス、オランダのようなヨーロッパの国々におけるいくつかのアレヴィー財団、連合、教会組織、大学機関の活動によって、出版によって続いている。トルコにおける保守的で伝統的なアレ ヴィー派は、前述の国々で教会がキリスト教のプロパガンダをおこない、アレヴィー派の若者をキリスト教化する活動に対してかなり不満を漏らしている。
したがって、根本的な問題が一切の干渉を排してアレヴィーのアイデンティティの問題であるのと同時に、彼らの受容や民主的権利の認識からなる根本的な問題の一部でしかないジェムエヴィ問題が、今日、根本的な問題そのものと同一化してしまった。今日もはやトルコのほぼいたる都市や町で何年もジェムエヴィの存在が、とどまることなく新しく建設され、これらがスンナ派の人々の中でいかなる反応も起こさず、逆に受け入れられていることは明らかだ。このことは、頻繁に主張される「イスラムの礼拝の場は明らかだ、それはモスクとメスジトだ」という形の理論的な議論により拒絶されることが何ら実際上の意味をもっていない[ことを示している]。問題をこの理論的な議論を通じて話し合い、時間を無駄にすることは、自身をイスラムのアイデンティティの中で見る、無言の多数派を構成する伝統的なアレヴィーの集団をちゃんと扱っておらず、このことはトルコにとって全く良い結果を生まないことは、もはや受け入れられなければならない。常に我々が言っているように、「アレヴィーにはジェムエヴィはあったか、なかったか」というような不毛の議論で時間を無駄にしてはならない。この必要のない議論をする人たちが、まさに名前を帯びて何世紀も存在している制度を見ない振りをしないことが望まれる。
上でも強調したように、あらゆる内政問題を誤ったアプローチが原因で国際問題化させ、外部の干渉に自身の手で引き渡すトルコが、せめてこの問題では手を速やかに引いて、ジェムエヴィ問題を解決に導くことは、アレヴィー派問題の解決に向けて行われる最初にして最も注目を引く行動となろう。実際アレヴィー派問題といわれる 「もの」の解決で本来大きな行動を起こす必要があるのは、私見では大部分がスンナ派層自身に、そして政権にある。彼らの理解と寛容は、この解決を簡単にする最大の要因である。
アレヴィー派問題と我々が言うところの「もの」の一面がこれならば、もうひとつアレヴィー派の興味を引く面がある。もはや政権が問題を解決するために行い、または今後行うすべての措置は、クルド問題同様に信用できず、結果が出ないということを予見する「アレヴィー派はスンナ派化され同化されることが望ましい」といった口実で拒絶すること、アナトリアの表現では「足をレンズマメの幹にかけて」といった解決の提案に関心を示さないといった贅沢がゆるされないことを知ることが、理に適うものとなる。他に、彼ら自身が自身の信仰や儀礼が知られていないことに当然ながら不快になっているなら、「お清め、礼拝、断食、モスクはイスラムに後からウマイヤ朝によって導入された」というような社会学的または理論的、信仰の点から何の歴史的根拠のない主張をも発言させないことが非常に適切である。双方とも共生に慣れること、忍耐と寛容により。
本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介されています。
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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:32072 )