フェトフッラー・ギュレンの見解:罪の意識(罪悪感)によって、罪が見て見ぬふりをされ、強盗、たくさんの強盗を見て見ぬふりをしながら、「これを一体誰のせいにしたら、いいだろう?!」と言うこと…これらは宗教(神)に反する弁証を行うということである。
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フェトフッラー・ギュレンは、Herkul.comというウェブサイトで「収賄」に関する最新の説話を公開した。昨今の捜査に言及したギュレンの見解は次の通り:
巨大な集団を、自身をアッラーに捧げた人々を排斥しようとする動きが昨今、盛んに行われている。いままでは異教徒や異端者のみが行っていたのだが、今や均衡を失った攻撃が存在する。しかし、これらすべてに対して揺らがず、が、揺らぐかもしれないが、崩れ落ちずに、「ああ、至高なる神よ、われわれはあなただけを信じ、頼ってきました。全身全霊でもってあなたに近づき、ついにはあなたのおそばに到達するでしょう」と言いながら、預言者ムハンマド(サッラーラフ・アレイヒ ヴェ セッレム)の偉大なる父祖、預言者イブラヒーム(アレイヒッセラーム)のようにアッラーを信じ、アッラーに守られ、神の意志にひれ伏すことで、この災難を乗り越えるために努力しなければならない。つまり「さあ、これとて過ぎ去るもの!」と言うべきで、それが過ぎ去る時を待たなければならない。
不適切で不作法なことに、同じような対応をすべきではない。同じムスリムに「下劣な」と言うべきではない。いつかアッラー(ジェッレ・ジェラールフ)が、このように言う者を本当に現実の中で貶めるはずであり、このように貶めたと歴史に記録されるのだ。次代の人々も、その者を貶められた人物として思い出すことになる。
恥ずべき行為に関わることは信徒のなすべきことではない。コーランの根本的な規律も真正なスンナから導き出される原理も、法体系の観点から、個々人の欠点と個人的性質の部分に関わることは正しくないと、クトゥミル(訳註:「洞窟の人々(エフェソスの7人の眠り人)」の犬の名前)のさまざまな例を通じて示してくれた。
同様に、近年私は、預言者ムハンマド(サッラーラフ・アレイヒ ヴェ セッレム)が教友マーイズ(訳注:姦通をムハンマドに告白し、清められることを望んだが石打ちの刑を受けた)を彼の御前から3度引き返させ、4度目にやってきた際に彼にシャリーアの罰が適用されたという事実を示そうとしてきた。また預言者ムハンマド(サッラーラフ・アレイヒ ヴェ セッレム)は、そのあとでやってきたギャーミディイェリの女(姦通に苦しんでいた女)も引き返させた。しかし、彼らは粘り強かった。彼らはある程度のこと(処罰)が適用されれば、罪は清められると信じていたのだ。しかしながら秘密裏になされた罪においてでも、『人類の誇るべき一覧(訳注:ギュレンの著書)』の中の洞察はこうした方向性にあるのだ;すなわち神に向かい、誓うのです、そなたの程度に応じて、悔悛するのです、そなたの程度に応じて、誓うのです、そなたの程度に応じて;すなわち許しを乞うのです、「アッラーよ、すべての許しを乞うものたちの祈りを考慮してくださるなら、私はあなたに許しを乞います!」と言うのです、「そして私はあなたに誓う、あなたは下僕の懺悔を聞き入れてくださるお方、私の懺悔をお聞き入れください;あなたはミュニーブ(Münîb罪を消し去り神に向かい合うもの)、私の懺悔に答えを与えたまえ;あなたはエッヴァーブ(Evvâb罪を悔い改めるもの)、どうか私の誓いをお聞き入れください」
これらは『エメラルドの丘々(訳注:ギュレンの著書)』でも言及されている、スーフィーの概念で、神に対する様々な向き合い方の名称であり称号である。関係者のためにこれらをここで繰り返し説明する必要はないだろう。個人の罪に対してなされるべきことは、許しを乞い、悔悛することである。個人がこれを為し、そして神の祝福、恩恵、恩寵、慈悲によって浄化されて(罪は清められて)きたのだ。悔悛は浄化のための一つの水盤である。このようにして神の天国でまっさらになって、首を高くもたげることができるのだ。
しかし、いくつかの罪があるのだが、これらは社会の法(一般的な法律)に違反したことで生じた罪である。社会の正義である。社会の正義は、同時にアッラーの正義でもある。イスラームの法システムであれ近代的法システムであれ、社会の正義に関わる問題には決して容赦をしない。社会の法(一般的な法律)はもちろんである。社会が所有すべきものが盗まれ、取られたのなら、これをいかなる法規則を用いても、あなた方はあれこれの(皆の怒りを)おさめさせることはできない、またそのほかの扇動や弁証法を用いてもできはしない。社会の正義とはこうしたものなのだ。 社会の法が侵害されたのなら、たった一粒の大麦が全国民の取り分であり、それが食べられてしまったのなら、その問題において誰かが不問に付したなら、その者もその泥棒たちと共犯であることを意味する。さあ、そこで不問に付すことはできない。不問に付さないこと、ここでの基本はこれである、一番重要なのはこれであり、(対処の)方法もこれである。
■強盗、たくさんの強盗行為が見て見ぬふりされて…
おそらくやり方が間違っていたのかもしれない。この問題には原則があるのだ。Aにたいして言うこと、Bに、そしてCに対して言うこと、わからないが、Hにたいして言うこともまたやり方の問題である。しかしいかなる時も、原理や原則はやりかたの犠牲にされてはならない。そうした悪事ははっきりと述べられなければならない、どのようになされるとしても、そのような穢れから人間が浄化されるのをしっかりと見つめるべきだ。
罪の意識(罪悪感)によって、罪が見て見ぬふりをされ、強盗、たくさんの強盗を見て見ぬふりをしながら、「これを一体誰のせいにしたら、いいだろう?!」(この問題で)、論点を変えながら、「国民の注目を誰かに向けさせるなら、こうして国民の目には、我々がこの悪事から無関係でいられたらいいのに(逃れられていたらいいのに)?!」ということは・・・これらは宗教(神)に反する弁証を行うということである。宗教の根本的教えに反する民衆扇動をおこなうことである、神よお守りください。これも罪を二重に犯すことを意味する。これは同時に社会のとても近しい集団や構成要素を離反させ、役に立たない状態にすることを意味する。神よ、そのようなことのないように。
これら二つのことは混同すべきではない。マーイズがその罪をもって、ギャーミディイェリの女がその罪をもって、個人的な罪をもって、あなた方の前に出てきたとき…イマーム・ハーディミに関することを私が示した際に申し上げたように、このように3度も4度もまぶたをぬぐいながら、「一体あれなのか、違うのか?」といって・・・慈悲を期待するな!「威厳と力は神にのみぞ」と言え。「アッラーよ、私にもこれにも御慈悲を!」と言え、後ろを見ずに立ち去れ。しつこく求めるな;すなわち思考に、大脳皮質にそのための場所をあてがうな。それを一つのファイル(頭の中の引き出しに)にしまうな。そして目にした時は、汝の兄弟のように再び固く抱擁せよ。これは個人の過ちである。しかし、社会を根本から揺さぶるような個人の過ちというものもあるのだ。それらを大目にみるならば、そうした過ちが拡散することに、すべての全ての恥ずべきことがらが社会全体に蔓延することに、きっかけを与えたということなのである。この観点から、イスラームの法システムであれ近代的法システムであれ、この問題に対処し、白を白、黒を黒としてはっきりと示さなくてはならない。
■重要なのは浄化されること(罪が清められること)
一つの事例があった;コーランの一節で「アッラーは信徒を清らかにし、清浄し、浄化する;ある意味では、その他のもの(非ムスリム)を振り分け、落とし、そして彼らは振り分けられたということになるのだ」。聖ピールの言葉では、ダイヤモンドと炭は見分けがつく。ダイヤモンドと炭を見分けることができないとき、ダイヤモンドさえも、そのそばに(炭のそばに)あるゆえに、炭として見られるものだ。
重要なことは浄化されることである。内にあるあの穢れを投げ捨て、「清らかになった、清らかになるよう努めている、インシャッラー、これらかも常に清らかでいるだろう!」という考えにかかっているのだ、さらなる様々な戦略をともないながら、さらなる博愛的な態度と振る舞いをともないながら、さらなる思いやりのある行為をともないながら!他者を攻撃しやすい標的として示しつつ、社会に対して一部の「黒いペン」によって彼らを中傷することで自らの慰めとすることは、この世では何らかの意味はあるかもしれないが、来世では全く役に立たない。というのも、アッラーは悪事を知っており、強盗を知っており、盗みを知っており、収賄を知っているからだ。あの世では、ひとりひとり、たった一粒の大麦についても説明を求めるといわれるほど、アッラーはすべての説明を求める。
ここでひとこと言おうと思う。今に至るまで全く言わなかったことだ。もしこの件で、一部の友人たち(訳注:捜査を担当した警察を指すと思われる。警察はギュレン運動関係者が多くを占めていると目されている)が、自身に与えられた権限を使って…彼ら[警察]が腹いせに[公正発展党政権に]嫌がらせをし、あれやこれや言い、fとも、gとも、çともdとも(ああもこうも)言うことができる・・・と言っているとするなら…関わったのか関わらなかったのかという点で、おそらく凶悪な犯罪とみなしうることをおこなっているのだ。つまり、私は次のように言いたいような気がするのだ…言うのをおさえられない。いかなる時も言いたくなかったが、今、言いたい気がする。でなければ、イクバル博士(Doktor İkbal)や聖ピーリ・ムアン(Pir-i Muğan)のように、むだな努力をしないこと(罵りや呪いに「アーメン」と言わないこと)、それらをしないことが私たちの一般的なスローガンである。
しかし、もし本当にこうした不正に関わった友人たち(がいるなら)・・・私は彼らが誰なのか知らない、全く知らないが・・・こうした仕事(任務)に関して、「法そして同時にシステムが、宗教そして同時に民主主義が、必要とする事柄はこれらである」と言って、罪を清めるという名目で、清めるという名目で、清浄にするという名目で、そして穢れが来世に及ばないようにという名目で、何かをするなら、そして宗教の精神に反することをしたのであれば・・・彼らは私たちに対しても悪意ある振る舞いをしていることになる…、それゆえ私は、自分たちも彼らの一員とみなして言うのである…宗教の精神に反することをしたのであれば、彼らがした行為がコーランの基本的規律や真正なスンナ、イスラーム法や近代法、そして今日の民主的諸概念に反するのであれば…アッラーよ、われわれも彼ら(友人たち、警官のこと)も地中深くに沈めたまえ、家々に火を放ちたまえ、家庭を崩壊させたまえ。だが、そうでないのならば、泥棒を見ずに泥棒を捕まえた人々をいじめ、殺人を見ずに無実の人間に罪を着せることで彼らを傷つけようとした人々…アッラーよ、こうした人々の家々に火を放ち、家庭を崩壊させ、彼らの結びつきを破綻させたまえ、感情を胸のうちに留めさせ、彼らの行く道を塞ぎたまえ、何も起こらないようにしてくれ。
言わないできたことだったが、言わずにはおれなかった。あれほど歯をむき出しにされ、あれほど唾を吐きかけられ、あれほどある人物から挑発され、あれほどあの「ツイート」であの忌まわしい思考が、一方的に、自由にいとも簡単に回り廻ったのだから、言わずにはおれなかった。今まで言わなかったことを言った。
アッラーは万物の守護者である。この世にはクトゥミルのような人類のオベリスクは存在しない。60年間で様々な力を彼は手に入れた(訳注:この2月で60歳になるエルドアン首相を指していると思われる)。私は、アッラーに常に祈りを捧げ、「アッラーよ、私の兄弟たちを、それぞれの職場での、そして工場での労働から救いたまえ。アッラーよ、彼らのことで私を困らせないでください」と言った。彼らは労働者として働き、労働者として引退し、何も手にしてこなかった。多くは借家で暮らしている。私自身でもそのように考えたし、彼らのためにもこのように考えた。モスクの窓で3年寝起きしていた時は(訳注:ギュレン師が困難な暮らしを表現するときの言い回しの一つ)、基本的にあの世の事柄にふれないために…6年間小屋で敷き布団もなく寝起きしていた時は、この世の所有物や財産に心傾かないように、私は同じことをした。アッラーはこの証人である。だが、しかしながら強盗をして、国民の所有物や財産に手を出したにもかかわらず、未だにムスリムとして見なされているのであれば、あの世で何がどうなるかは明らかだろう。
心は神の王座である/神は心を御見通し/誰かが心を傷つけたなら/そのものはこの世とあの世の不幸
彼らは多くの信徒の心を傷つけた。私はわれわれ自身をも免除しなかった。不正をした者は誰でも絶対に相応の罰を受けるだろう。
本記事は
Asahi 中東マガジンでも紹介されています。
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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:32438 )