チュニジア:アラブ諸国でホロコーストに言及した初の国に
2014年01月28日付 al-Hayat 紙
■ホロコーストの記憶:イランはホロコーストを再承認、チュニジアはアラブ諸国でホロコーストに言及した最初の国に
【ベイルート:本紙】
毎年この時期になると、ユダヤ人、特にイスラエル国内に住むユダヤ人たちは、「ホロコースト」の名で世界的に知られるようになったユダヤ人の大量虐殺の記憶をふりかえる。
「ホロコースト」というこの言葉は、ナチスが第二次大戦期にアドルフ・ヒットラーの治世下で行った、ユダヤ人に対する虐殺行為を指して用いられる。いくつかのデータによれば、その虐殺の犠牲となったユダヤ人の数は、ヨーロッパほぼ全土でおよそ600万人におよんだとされる。
メディアや歴史の分野では、人道に対する罪の中でも最悪の事例の一つと評されるほどホロコーストは大きな位置を占めているにもかかわらず、その虐殺行為が開始された正確な日付というものは存在しない。たとえ、歴史家らがその時期をナチスがドイツで政権を握った段階、すなわち1933年1月に結びつけていたとしても、ホロコースト開始の正確な日付は定まっていなかった。しかし、後の研究により、組織的な大量殺人は1941年6月のドイツによるソ連侵攻後ほどなく始まったことが明らかにされた。
ユダヤ人の大量殺人は、単に発砲のみによってなされたものではなかった。殺害手段は多岐にわたり、その目的は「劣等人種(訳注:独語でUntermensch)を排除した優性人種の純血」を手に入れることであった。それは、ロマ人(ジプシー)、ポーランド人、ユダヤ人、スラブ人、アルタイ人、アフリカ人、さらにはアーリア人の中でも同性愛者、犯罪者、身体的または知的障害者らの集団の排除を意味した。加えて、共産主義者やリベラリスト、ナチスの思想に反対する者やエホバの証人といった集団も排除された。ホロコーストの枠組みで行われたものには、殺人に至らない行為も存在した。たとえば、知的障がい者や精神病患者40万人に対して出産防止のための外科・医療手術が施された例がある。また不治の病にかかった病人や障がい者、精神病患者20~30万人の命を絶つのに、「安楽死」と称された手法(訳注:T4作戦・安楽死政策)が用いられた。
歴史家たちは「ホロコースト」を何もないところから始まったものではないと考える。そうではなく、ホロコーストは、1938年11月9日の夜、ユダヤ人に対する怒りのデモがドイツの諸都市で吹き荒れ、ユダヤ人の商店が破壊された事件への反応だったと考えている。その夜は100人のユダヤ人が殺害され、3万人が逮捕された。さらに7,000軒の商店と1,574のシナゴーグが破壊され、その夜は「水晶の夜」と呼ばれた。
ホロコーストの記憶から年月を経た今日、依然として実際に起きた出来事をめぐり意見の相違が存在する。イランのマフムード・アフマディーネジャード前大統領は、ホロコーストに関する歴史上の情報に対して懐疑的見解の持ち主だった。数々の場面、とりわけホロコーストを議題にした会合の場で、アフマディーネジャード前大統領は、ホロコーストはイスラエル人によって蹂躙(じゅうりん)されているパレスチナ人を擁護するという人道的側面から「資本主義の背骨をへし折った」と指摘した。
今日のイランの公式の立場は新大統領の選出とともに変わった。同国のムハンマド・ジャヴァード・ザリーフ外相は以前Twitter(ツイッター)で、イランは「ユダヤ人に対するナチスの虐殺行為」を非難すると述べ「イランはホロコーストの存在を否定したことはない、否定していると思われた者はもういない」と述べた。
さらに、チュニジアは数日前、「ホロコースト」をめぐる会議を開催した。これは、アラブ諸国で初めて公式に行われたホロコーストを扱う会議となった。参加者はスピーチの中で、言及されている期間(ホロコーストが行われた期間)にチュニジアのムスリムが自国のユダヤ人を救うために動いたことを取り上げた。
「ホロコースト」という言葉は、元来「獣を丸焼きにして神前に供える犠牲」を意味するギリシア語であり、この言葉はヒトラーのユダヤ人に対する所業を表す語として70年代に広範に普及した。一方、当時の40年代には「ホロコースト」ではなく「ショアー」という言葉がユダヤ人たち自身によって用いられていた。この言葉はトーラーに記載された言葉であり、惨事を意味する。
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Asahi 中東マガジンでも紹介されています。
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( 翻訳者:辰巳新 )
( 記事ID:32753 )