文化・芸術の足元に設置される地雷(下)
2014年03月11日付 Jam-e Jam 紙

 ロオヤーイーはファラ事務所から、詩のさまざまな潮流を同事務所へと誘い込む任務を帯びていた。ファラ・パフラヴィー自身が審査委員の一人となって、一年の最高の詩集に賞を授与するようになったのも、こうした目的によるものだった。ロオヤーイーはそれからしばらくして、ラジオ・テレビ詩歌委員会の委員長に就任する。この委員会は、放送局で流される詩歌の調査・承認を一手に引き受けていた。この委員会には、ナーデル・ナーデルプールやスィーミーン・ベフバハーニーらも名を連ねていた。彼はまた、シーラーズ芸術祭〔※〕のプログラム策定でも重要な役割を演じ、同祭の開催委員会の委員を務めた。

※訳注:1967年から1977年まで、毎年夏にペルセポリスにて、ファラ王妃の監督下で開かれた祭典。

 さて、「イラン革命のファジル(夜明け)の詩の祭典」への招待を尊大な面持ちで引き受けようとしている!この人物にとって、イランのムスリム国民が起こした運動、そしてイスラーム革命の燃えさかる炎は、一つの悲劇であった。それゆえ、ロンドン発行の反革命誌「ニームルーズ」とのインタビューで、彼がイスラーム革命を非難し、それを1332年モルダード月28日のクーデター〔※1953年8月19日に起きた、軍とCIA及びMI6主導による反モサッデグ・クーデター〕と同列に扱って、「1332年モルダード月28日に、私たちは担がれた。1357年バフマン月〔※イスラーム革命のあった1979年2月〕に、私たちは担がれた。ホルダード月2日〔※1997年5月23日、改革派のハータミー政権が誕生した日〕に、私たちは担がれた」と述べているのも、別段驚くには値しないのである。

 ロオヤーイーはイスラーム革命の勝利に伴ってフランスに逃亡し、反革命分子の一味に加わった。彼は88年の選挙後の出来事〔※2009年大統領選後の抗議運動〕の過程でも、反乱を起こした者たちを支持した。〔支持表明の〕文面の一部は、イスラーム革命の創始者イマーム〔・ホメイニー〕閣下への罵詈雑言を伴うものであった。本紙はその内容についてここで繰り返すのは、控えたいと思う。しかしその本文は、ファールス通信で報じられている。

 先日、革命最高指導者は国の直面する文化問題について警告を発し、憂慮の念を表明した。このことを考えるならば、敬愛すべき文化イスラーム指導相は事の次第をしっかりと監督し、国の毅然たる政策に反して、一部の者たちが文化の領域に地雷を設置するかのごとき行動に出ているのを看過すべきではないだろう。

 さて、「ファジル 詩の祭典」の政策委員会の理事たちが、「脱線」してしまったこの祭典を再び本来の場所に戻すことができるのかどうか、私たちは見守らねばならない。〔「詩の祭典」のカーカーイー学術書記が〕同委員会の理事らによる会議開催を阻み、革命詩の詩人たちが同祭典の思想局に対して距離を置く路線を突き進もうとしているウラには、果たして何らかの「故意」が隠されているのだろうか!?

※訳注:その後の報道によると、ロオヤーイー氏の「詩の祭典」への招待は撤回されたとの由。

Tweet
シェア


この記事の冒頭に戻る
関連記事(ハーメネイー最高指導者「私も文化問題に懸念を抱いている」)
原文をPDFファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:白糸台国際問題研究所 )
( 記事ID:33259 )