AKP所属エラズー県ケバン市長に選出の女性政治家、その人生
2014年04月03日付 Radikal 紙


エラズー県ケバン市のフェトヒイェ・アトゥルさん(51歳)は、1,715票を獲得し、二位に900票もの差をつけて市長に選ばれた。長年続けてきた政治闘争とともにその半生も注目を浴びている。

アトゥルさんによると、父親であるティムル・アトゥルさんも1977年に共和人民党から出馬しケバン市の市長を務めた。アトゥルさんは高卒でありながら財務省の試験を通り、財務省関連のさまざまな機関で勤務した。

アトゥルさんは、あちこちの町の財務省関連機関に勤めた後、1993年にケバン市へ配属となったと語り、「ケバン市では1993年から2000年までの7年間働きました。スカーフ問題が発生するまでケバン市で仕事をしました。1998年にスカーフ問題が浮上すると、警告を受けました。2000年に財務省の調査官が来て聴取し、その後我々を解任しました。その当時スカーフに関する法律はなかったため、法律657号の125条a項に基づき、組織の平穏を乱したとして我々を解雇しました」と話した。

■メッカ巡礼に行き、後遺症をもつ親族と結婚

フェトヒイェ・アトゥルさんは、2000年に兄弟とともにメッカ巡礼の義務を果たし、2002年に子どものころに罹った病のために麻痺の残っている親戚のベキル・アトゥルさんと結婚した。結婚して12年になるフェトヒイェさんは、子どもはいないが夫と幸せな結婚生活を送っており、選挙期間中に最も支えてくれたのは夫であったと語った。またアトゥルさんは自ら家事を行なっており、いつも夫が手伝ってくれるため幸せであると話した。

■父親もCHPから出馬し同市の市長を務めた

フェトヒイェ・アトゥルさんは、父親のティムル・アトゥルさんも1977年にCHPから出馬しケバン市長に選出されたことに言及し、父親が目指したものの生きているうちに成し遂げられなかったプロジェクトを実現させるつもりだとし、次のように語った。
「父は1977年にCHPから出馬し市長に選ばれました。2年半市長を務め、1980年クーデターにより職を離れました。父にはいくつもの計画や夢があり、私に話してくれました。亡き父の夢は次のようなものでした。ケバンにはセフティル丘があります。父の33年前の夢は、セフティルの山頂にホテル・レストランを建設し、麓からロープウェーを通すことでした。父は『魚と缶詰の工場を作ろう、もし市長でいられるなら』と言っていました。父は見ることができませんでしたが、父には先見の明がありました。というのもケバン市には今、魚と缶詰の工場が建っているからです。『ガラス工場を建てよう』とも言っていました。父は大きな夢を持った人でしたが、アッラーは再選を許しませんでした。1993年に心臓発作で亡くなりました。アッラーが認めてくださるなら、私が父の夢を引き継いで実現したいです」。

■「わたしとケバン市民は常に任務のある場所にいる」

フェトヒイェ・アトゥルさんは、父親が市長に選ばれた当時の共和人民党(CHP)は、その地方で抜きん出た支持を集めていたとし、次のように語った。
「つまりこういうことです。当時共和人民党にとって代われるような政党はあまりありませんでした。私の父は民主党からCHPへ移りました。議論のせいで腹を立ててCHPへ移り、その後もずっとCHPに所属していました。ですが今は亡きトゥルグト・オザル元大統領が亡くなったときには大変悲しみ、泣いたそうです。オザル元大統領のことも好きで憧れていたのです。私たちだって『今こちらにいるからあちらには絶対には移るまい』というような考え方はしません。任務(hizmet)がある場所へ行きます。我々のケバンはすでにその決断を下しました。ケバンでは26年間与党と縁がありませんでした。しかし今や彼らは政権の恩恵を受けるでしょう」。

市長に当選したフェトヒイェ・アトゥルさんも夫ベキル・アトゥルさんは、妻のことを非常に寛大な人物であるとし、「彼女はラディカルな決断を下すことがあります。寛大で勤勉です。とりわけ自分の故郷に礎を築くことを熱望しています。上手くいくよう祈っています」と語った。

訳注:フェトヒイェ・アトゥルは与党である公正発展党(AKP)から出馬し当選した。




本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:33392 )