コラム・シリア:パレスチナの分裂がもたらしたヤルムークの惨劇
2014年05月04日付 al-Hayat 紙


■ヤルムーク難民キャンプはパレスチナ人の分裂とアサド政権の怒りの犠牲に

【マフムード・サルハーン】

ヤルムーク難民キャンプ(ダマスカス南部)の餓死に関する悲惨なニュースは、今日世界中のあらゆる方面において耳にする。こうした悲劇的な知らせを受け、国際社会では難民キャンプに敷かれた包囲の解除、および人道的支援の提供を求める声が高まった。反体制派戦闘部隊が支配する、ヤルムーク難民キャンプの周辺地域は、包囲の解除を条件としたシリア政府軍との停戦が実現し、反体制派の部隊が当該地域に留まりながらも食料物資や医療物資の支援が提供された。しかし、「ヤルムーク難民キャンプ」だけは、停戦への取り組みが失敗に終わるばかりであり、依然として人道的惨劇が続いている。290日間も続く包囲により、犠牲者は増加の一途をたどるばかりだ。現時点ですでに犠牲者数は150人に達した。この惨状を前にして、次のような問いかけがなされるのは至極当然と言える。すなわち、ヤルムーク難民キャンプの周辺地域のような休戦協定の実現を妨げているものは何なのか、そして、なぜこれまでパレスチナ解放機構(PLO)がとってきた難民キャンプの「正常化」に向けたイニシアチブが失敗したのか、という問いである。

この問い自体、至極単純であるにもかかわらず、その答えを見つけることは容易ではない。この点、ファタハと「ハマース」間のパレスチナの分裂、そしてこれら両者のシリア危機に関する見解の相違が、ヤルムーク難民キャンプの危機解決のための取組みをことごとく失敗させている原因であるという主張がある。しかし、この考えは、パレスチナ人から見たシリアにおける複雑な政治的現実を考慮していない点で、十分とは言えない。さらに、この考えではシリア政府と複数のパレスチナ人グループの間の関係の本質が視野に含まれていない。両者の関係は、ハーフィズ・アサド前大統領の時代に、幾多の紆余曲折を経て形づくられた歴史がある。ハーフィズ・アサド前大統領はPLOの決定権を掌握しようとし、故ヤースィル・アラファート初代自治政府大統領と長きにわたって政争を繰り広げた。PLOにとって最も顕著な出来事は、シリアが介入した1983年のファタハ分裂、そしてその後のファタハ・インティファーダ派の成立だろう。この組織は、親ファタハ・インティファーダ派のパレスチナ人諸派をとり込み、シリアにおいてはPLOに代わってパレスチナ人を代表する組織に成長した。シリアではアラファート主導のファタハの活動が禁止され、アラファートに付き従う者たちも長い間逮捕され続けた。そして、オスロ合意成立(1993年)後、シリアではこの合意を拒否する多くのパレスチナ人諸派が、いわゆる「パレスチナ同盟諸派」を組織した。シリア革命が始まると、この組織から「ハマース」が脱退し、イスラーム・ジハード運動がその後に続いた。よって、アフマド・ジブリール書記長率いるパレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-GC)が、この「同盟」勢力の主導において主要な役割を果たすこととなった。同書記長は、「武装人民諸委員会」を組織しヤルムーク難民キャンプを内部抗争に巻き込んだ。これは、シリア情勢に対して中立の立場をとるとしたパレスチナ人の合意から逸脱するものであった。

(後略)



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:辰巳新 )
( 記事ID:33765 )