キサースは権利なり、赦しは甘美なり:キサース刑は犯罪再発の抑止のため(中)
2014年05月18日付 Jam-e Jam 紙

赦しを与える者たち

 人生の一瞬一瞬の価値を理解するためにも、〔加害者には〕キサースの宣告が必要だ。死刑宣告を受けた者がどれだけの恐怖を覚えるのかを知るためには、つねに死と隣り合わせになって、死の影を体で感じるべきだ。赦しの言葉はどれほど心に響く言葉であるのかを理解するためには、死まであと一歩というところにまで行く必要がある。被害者遺族による赦しと優しさが、どれほど甘美なものなのかを感じるためには、殺人犯に与えられるべき刑罰はキサースでなければならないのだ。

 これまで〔キサース刑の〕宣告を受けた多くの者たちが、この甘美な味を噛みしめてきた。そしてこれまで多くの被害者遺族が、実に寛大なことに、愛する者から流された血を赦し、一般国民の感情を清々しいものにしてきた。彼らこそ、赦しと優しさの教師に他ならない。彼らこそ、キサースは被害者遺族の権利であるが、その一方で赦しは復讐よりも尊いという宗教的な教えに従う者たちなのだ。

 ヌールの住民で、17歳のときに集団での乱闘に巻き込まれて志半ばで命を絶たれたアミール・ホセインという名の若者の両親が今年、彼を殺害したバラールという男を赦した。それも首に縄が掛けられ、死を予期していたまさにそのときのことである。赦しの瞬間を捉えた写真は、それを見た者に鳥肌をたたせて息を呑ませるほど、心揺さぶるものであった。

 ニーシャーブールの住民で17歳のときに人をあやめたサイードという若者も今年、絞首台に足を掛けて、死という永遠の道を歩まざるを得なくなったその時、遺族らの寛大なる措置によって容赦された。〔被害者の〕父親が息子を殺害したサイードを赦したのは、自分たちのように子供の死という耐えがたい瞬間を、他の家族には味わってほしくない、という理由からだった。

 昨年、治安維持軍の兵士であったバーバクを殉教させたヴァヒードという男も、同様の〔遺族の〕寛大さによって赦された一人である。首に縄が掛けられ、足元の椅子がひかれ、死〔のロープ〕が喉元を締め付け、数秒間絞首台に吊されて、絶命しそうになったにもかかわらず、である。ヴァヒードの命が尽きようとしていた、まさに最後の瞬間のことだった。最後の瞬間に与えられたこの赦しは、復讐心がどれだけ大きくとも、それを打ち捨てることが可能だということを、すべての被害者遺族に教えたのであった。

赦しを与えない者たち

 殺人犯がいかに〔被害者遺族の〕憎悪を引き起こす存在なのかを理解するためには、愛する者を失わなければならない。愛する者の、血まみれの亡骸を目にした時の記憶がいかに心痛むものであるのかを知るには、殺人の被害者の遺族にならなければならない。〔‥‥〕

 被害者遺族の他に、被害者遺族のことを理解することのできないる者はいない。キサースは神が殺された者の遺族に与えた権利であり、彼らが神の法規定の執行に固執したとしても、それは自分たちの権利を主張したにすぎない。

 キサースは、最も暴力的な犯罪行為である殺人の再発と蔓延を防止する一つの方法だとみなされている。法律に則った報復(キサース)は正義から逸脱した盲目的な復讐を防ぐものだという論拠から、殺人事件の裁判は捉えられている。ところが、殺した側と殺された側の立場が逆転することが、ときにある。「殺された側は〔殺した側に〕赦しを与えるのが相応しい」といった考え方を持ち出して、国内の某地域の某家族が、自分たちの信念や理由付けから殺人犯を赦したケースを根拠に、あらゆる被害者遺族はこの決断に倣うべきだ、などと論じる人たちがいるのである。

 その結果、被害者遺族に大きなプレッシャーがかかり、その多くはこうした判断の重みから逃れるべく、公衆の面前に姿を現すのを避ける〔=公開処刑の場に立ち合おうとしない〕ケースすら、見られるのである。

つづく


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( 翻訳者:8410068 )
( 記事ID:34008 )