あれから一年、私にとってのゲズィ事件
2014年06月01日付 Zaman 紙

2013年5月末にインターネット上で観た、市民がゲズィ公園の木の伐採に対する反発を示した映像は、深く私に影響を及ぼした。ふつうの市民や若い活動家らだけでなく、他の人々も木が伐採されるとの情報を聞き、公園に交替で泊まり込みをする決断をした。私も決心した。翌日私も公園を守りに出掛けるつもりだった。

私は1977年生まれだ。1980年のクーデターの前後に起きた出来事は、いつ聞いても驚き、人々がなんて分離し、互いに殺しあったものだと感じていた。右左の衝突を認識できず、若者たちの死を嘆いた。常に互いを助け合うことを大切なこととした私たち国民は、どうして一時期互いを殺し合ったのか。しかしその時期は過ぎ去っていったと思っていた。

ブロンドで青い瞳の、イスタンブル方言でトルコ語を話す私は、エーゲ地方出身の家族、古典的な教育制度や文化が嬉々として私に教えたアレヴィー派、クルドや東部出身の市民らは二流で、教育不足の田舎者で、トルコ国内にいつも問題を持ち込んでいるのだという考え、この考えを公言するようになった。高校時代、ある友人に「私はアレヴィー派の人々を憎んでいるのだ」と言うと、友人から「でも私もアレヴィー派だ」という返事を受けた。私のエーゲの血管の中には国家主義と民族主義の血が流れ、これを誇りに思っていた。

2001年1月イギリスに移住し、そこで少数派となるまでは…。イギリスはひと時も私に自分が二流や田舎者だということを感じさせなかった。ふつうに亡命してイギリスに移住したアレヴィー派、クルド、東部出身の人々を親しく知ることになった。彼らはどこにでもいるからだ。私が国外に出たいきさつは20代に自分の信仰を見つけたことに始まる。24歳のとき、私はスカーフをかぶること選び、地位、家族、イスタンブルの暮らしを捨てた。その歳まで自由に暮らした[イスタンブルのアジア側の繁華街]「バグダート通り」的私のものの感じ方は、2000年代のトルコでは仕事上のチャンスが小さいことや、スカーフを被ったために向けられる差別的な視線に耐えられなかった。

5月30日、私の子どもに9時に学校に送り届けタクスィム行きのバスに乗った。タクスィムまでの長い時間、横に座った研究者の女性とゲズィ公園について話した。公園が広場にある唯一の緑の場であり、百年の樹齢の木々があり、ショッピングセンターに変えられることは尋常なことではなかった。もちろん、公園は緑の場として残っているべきだった。

タクスィムに着いた際、広場での作業が続いていたため、私は公園に辿りつくのにさんざん回り道をした。ただ歩行者がいるとても広い広場で何が作られなかったのか。中でアヒルが泳ぐ水場、季節の花々でいっぱいのちょうちょが舞う歩道、可愛い動物園、子どもの遊び場、喫煙所!。でも確かに下にあるベンチに影を落とすほどの大きな葉を持つ木々はあるのだ...。私が期待したのはヨーロッパから最近戻った誰かの夢のようなものだった。

公園への回り道は、常に選ばれた人々が唯一の決定機関であると思い込ませる国家主義的ドクトリンがわたしに演じさせた、舞台のラストシーンであったとはわからなかった。公園に着いて、周りの建築作業や作業機械、コンクリートの壁を見て怒りが込み上げた。公園の周りを囲む数百人の警官はまるでその機械を守り、公園の中にある色とりどりの安楽に終わりを告げる命令を待っているかのようだった。

公園で聞いた最初のニュースは、朝5時にテントを燃やした警官が、木によじ登った1人の若者を棍棒で叩いて彼の睾丸を引き裂いたというもので、私が到着した時、若者はシシュリ・エトファル病院で手術中だった。その時まで「事件現場」におらず、ニュースの真偽を画面から見ていた私は最初の衝撃を受けた。

ゲズィ公園へ向かった道が終わるころ、すでに国父が私をその支配下に置き、ものの考え方まで私を支配し方向付けしていた、「国が殴り、ののしり、何をしようとそれは正しい」という考えが消え始め、マトリックスの映画の中で体につながったコードを外して自由に苦しんで巡り合ったネオのように感じた。頭も心ももずきずきと痛み、何ができるだろうかとあたりを見回した。

プラカードを用意する若者たちを見て、会釈して、彼らを手伝った。起きたばかりの若者たちのためにボレキとアイランを買った。公園の端から端まで歩き回ると、木にリボンを結ぶヒッピーの娘たち、環境保護のメッセージを掲げ、正しいことをしていると互いに語り合う談義、署名を集める机、木の下で体を延ばして本を読む人たち、公園に社会学の実験を行う学者たち…。この雰囲気は、80年のクーデター時に生じていた敵意を理解できるにはほど遠いものだった...。

14時、公園でフォーラムが行われた時、私は最前列に場所をとった。様々な層の人々、彼らの話し、明らかに200人ほどの人々と一緒に公園にいることをうれしく思った。彼らは公正発展党(AKP)政府の「君主気取り」の決定に私生活や職場での暮らしにおいて嫌気を感じているようだった。マイクがのばされ、話した一人が、首相に激しい怒りを示し、厳しい言葉をかけたことを決して忘れない。フォーラムにいた人全員がこの「支配者」を非難し、声を荒げ、彼の態度に賛成しないこと、正しいのに不当に扱われることを望まないと語った。ヴィーガンの若者は、木のために公園に来たが、動物の権利も否定できなくなったとと述べ、 公園でキョフテを売る人々やそれを買う人々を批判した。ある学生は緑の場が不労所得者の犠牲になり、この公園だけでなく、第三橋建設計画を中止させるため、ここから離れないと主張した。ある労働組合のスポークスマンは労働者の権利と彼らの死を真摯に受け止める必要があると強調した。主婦の女性はここで見た状況からかなり影響を受けたこと、ここに集まった人びとが様々なイデオロギーを持っているとしても、私たちを集結させたものがこの公園であること、そしてこの連帯感から喜びを感じていると表現した。彼女は私を指して、「スカーフをかぶっている人も、そうでない人も、ここにいる」という発言するのを忘れなかった。

14時のフォーラムは報道陣をいれなかった。というのも、ここ数日、警官と役人らから受けた圧力や暴力がメディアに正しく反映されなかったからだ。というよりむしろ、まったく報道されなかった。人びとは経験したことを写真や映像を通じてソーシャルメディア上で共有した。19時に新たなフォーラムを約束して人びとは解散し、私も帰宅の途についた。

このような雰囲気の中、皆、和解の希望を持っており、帰宅を望んでいたのだと思う。しかしそこにとどまる必要があったなら、[留まるだけの]すべてが用意されていた。天気は良く、若者は普段とは異なった経験をし、新たな友情や連帯感が芽生えた。

「ならず者たち」[という言葉]は、翌日首相が「ゲズィ運動者たち」に行った最初の侮辱として歴史に残った。頭を抱え「さあさあ、今にも数百万人が公園に殺到するだろう」と言えば、イスタンブル各地から政府と異なる時に異なる問題を抱えた数千人がタクスィムに向かって出発したとしてもだ。私たちは、15歳の時から青年組織の中で育ち、常に政治の中に身を置き、政治の微細な部分を知り、口から発せられる言葉がどこへ向かうのか、ドミノ式に誰を、どれほど、どのように影響するのかということを熟知する首相について語っているのだ。人々は、好意をよせ同意を求められること、もう彼の言葉から屈辱を味わうこと、もしくは他人や、自ら選んだ首相から見下されることに嫌気がさし、もうこのことが終わることを望んでいたのだ。

スカーフ問題のせいで、私は2001年1月に国外へ移住することを決めた。それ以前にスカーフに関連して起こった困難は私を怯えさせた。タクスィムに人びとが集まると、この恐怖が私を包み込み、私はふたたびゲズィ公園には行けなくなった。それが正しいと感じさせる出来事もすぐに起こった。「カバタシュでスカーフをかぶった女性が受けた不当な扱い」はあらゆる層の人びとに深い衝撃を与えた。首相はカバタシュの事件とともに私が気に病む箇所から私の心を捉え、目の前をブロックで覆った。でも首相のいつものやり口だ。人びとの微細な心の動きを巧みに利用した首相は、国の思考を最も代弁する機能的な装置であった。

私が属した保守層、暮らす住宅地とその環境、さらには私の親戚まで、首相の発言を魔法をかけられたように聞き入り、外部勢力のいつもながらの謀を呪い、ゲズィ公園に行く人たちを非難した。ある層によると、死亡した若者たちは国に反抗することがそもそも罪であり、自業自得だとする。私は真実を説明しようとする代わりに沈黙を保った。2013年の夏はぴりぴりとした痛みを患った。

AKPとギュレン教団の間の緊張やソマ炭坑での悲痛な事件の後の政府の態度は、当初私を理解しなかった友人たちが私に謝罪するきっかけとなった。ゲズィ公園で過ごした5時間は、今までの人生で学んだ中で最も質の高い教訓の一つであり、孫たちにも教えるべき大きな思い出となった。残念なのは、再びゲズィ運動に参加しなかったことだ。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:星井菜月 )
( 記事ID:34139 )