■バグダードの音楽学校、役割回復への試み
【バグダード:アリー・サラーイ】
バグダードの音楽学校で創立43周年記念式典が開かれ、文化省の上級幹部であるムハンナド・ドゥライミー氏が「イラクにおける音楽復興の兆し」について語った。
バグダードの中央、ラシード通りの歴史的建築物の中にあるこの学校は、とりわけ2003年以降困難な年月を乗り越えてきた。同校はアッバース・ジャミールやサルマーン・シュクルを含む多くのイラク人音楽家たちの名前と結び付く。この二人は「バイオリン、ジョウザ(ココナッツの殻から作られるイラクの弦楽器)、サントゥール(イランの打弦楽器)、カーヌーン(アラブの撥弦(はつげん)楽器)」に加え、歌謡曲で使われる弦楽器などを教えていた。
同様に、この学校はガーニム・ハッダード、ルーヒー・ハンマーシュ、フサイン・カッドゥーリー、サーリム・フサインら先駆者的芸術家たちをメンバーとする「フィルカ・フマースィー・フヌーヌ・ジャミーラ」(Fine Arts Quintet Band)を筆頭に、輝かしいバンドを輩出してきた。1970年代にイラクテレビが毎週金曜日の午後をこのバンドの番組に当ててからは、これに興味をもつファンとの密接な関係が生まれ、イラク国民はこの番組を熱望しながら視聴した。この風潮は10年以上続いた。
1970年に創立されたこの学校は、2003年のアメリカ軍侵攻により閉鎖され、教師陣の一部も脅迫に晒されたことで去って行った。内戦の間学校は半ば見捨てられており、「死の楽器」(のような民兵)が一般的に第一の標的として文化の担い手に照準を定めたが故、音楽教師たちはそこからの逃亡を余儀なくされた。これは学生とても同様で、自らの生命を守るため、勉学から離れざるを得なくなっていたのだ。
バグダード市民は、伝統ある音楽学院に行く途中の生徒らが通りで楽器を運んでいる光景が忽然(こつぜん)と消えたのを、ありありと覚えている。
イラク人の音楽専門家ムワッファク・バイヤーティーさんは、「過去10年に国で起きた出来事は、イラクの文化界に影を落としました」と言い、「2003年より前は、学院には300名以上の生徒がいて、約40人の教師が教壇に立っていました」と語る。その後、学院には苦難の時代が訪れ、生徒は15人以下となった。
2006年、学院に通っていてバグダードで民兵に殺された生徒の母親サーリマ・ザーヒルさんは「あの昼です、よく覚えています。息子のムラードの楽器(ウード)を持ってきてくれたんです」そして「息子の分までしっかり生きてくださいと言葉を掛けていただきました」と語る。
現在、ムラードの弟は、バグダード音楽学院に入学しようとしている。しかし家族は、バグダードで音楽を学ぶ生徒たちにとって状況は比較的変わったとはいえ、兄と同じような運命をたどるのはないかと警告する。
しかし、音楽を学ぶ生徒らの卒業式では、野心を抱く何十人という若者が恐怖という壁を超えたように見受けられた。カーヌーンの入ったかばんを抱えたムハンナド・ハスィーブさんは「イラクのような国に音楽がないなんて想像できません」と語る。2003年以降も、バグダード音楽学院は、残った忍耐強い生徒たちが身を隠しながら通学することを余儀無くされるような崩壊した治安状況の中、なんとか活動を継続しようと努めてきた。
イラク文化省音楽芸術局のファルカド・アブドゥルアズィーズ副局長は、バグダード音楽学院設立の目的はイラクの文明遺産を保存するため、音楽の専門家らを養成するためだと言う。
同音楽学院の活動に関わる担当者らは、学院が資金不足に苦しんでおり、その活動や、教師らを維持できるかという面で影響が出ていると明かす。一部の教師は、学院外で生徒を教えるなどして民間で働く方が良いと思っているという。
こうした苦難にもかかわらず、バグダード音楽学院は再び多くの生徒を引き寄せはじめた。約2年前には、およそ100人が入学試験を受けた。治安の回復を受けて学院は、演奏や音楽文化に秀でた才能ある生徒を集めるため、新しい合格基準を設定した。サッタール・ナージー学院長は「音楽を学びたいという生徒が増えて、状況はだいぶ楽になった」と述べる。
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( 翻訳者:伊牟田彬裕 )
( 記事ID:34707 )