交通事故で逝った名物ストリートレジ袋おじさんの秘密、明らかに
2014年10月02日付 Milliyet 紙


コンヤで人々に「レジ袋おじさん」として知られ、交通事故で命を落とした74歳の男性、メフメット・ケレシュさんの資産の秘密が明らかとなった。銀行によって特別車で送迎されていた「レジ袋おじさん」は、預金をする際に身柄を特定されないよう変装していたのだ。

コンヤで路上生活を営み、周囲の人々から施しを受けながら生計を立てていたメフメット・ケレシュさんは、「寒さを防ぐため」に服の上からレジ袋をかぶり、町の人々からは「おかしな」「レジ袋おじさん」として親しまれていた。しかし先週の土曜日、オトガル(バスターミナル)の乗客乗降レーンをバックしていた大型バスに轢かれ、亡くなった。老人の遺体からは、ひとかけのパンと、たくさんのビニール袋が出てきた。警察は、ケレシュ氏の2つの国営銀行の口座から約110万リラ(約5千万円)の預金があることを確かめた。彼の遺体は先日、故郷のチョルム県ラーチン郡にあるチャムプナル村に埋葬された。

■商店主語りき

「レジ袋おじさん」が新聞で取沙汰されるなか、特に口座の預金についてが、ひときわ人々の関心を引いた。
1978年、ケレシュ氏がコンヤに来てからどのように生活していたかを話すF.Ş.さんは、「当時路上で暮らし、商店主たちからお金をもらいながら、私の父の職場にやってきて父と仲良くなり、メフメットおじさんが気の毒な人だが清廉な人物だということで、父も彼を守り、助けたのです」

「メフメットおじさんは、周囲の人々からもらった食べ物でおなかを満たし、もらったお金をためていました。誰かに『お金をくれ』などということは決して言いませんでしたが、しかしかわいそうに思ってお金をくれる人もいれば、そこに気高いものを感じて(ご利益を期待して)お金をくれるひともいました。メフメットおじさんも、お金をくれる人の気持ちに添ってその人と会話をしていました。相手も5~10リラ(約250~500円)あげていても、さらにまたお金をあげることもありました。なんと、財布の中身を全部あげてしまう人も、さらには腕時計を外してあげてしまう人までいたくらいです」

■おんぼろ服に願掛けする人も

F.Ş.さんは、メフメット・ケレシュが晩年、寒さをしのぐためにビニール袋や新聞紙を体に巻きつけていたと話し、こう語った。「きれいな服をくれる人がいても、それを破って、ひもで結んでいました。またさらには、『ボロ布おじさん』として知られていたこともありました。その『ボロ布』に対して願掛けをする人もいましたし、その切れ端をお守りとして持って帰った人もいました、また例えば、誰かの裁判があるとき、『メフメットおじさん、裁判はどうなりますか』と尋ねれば、彼はその人の状況に応じて答えたと言います。時には彼の言葉が当たることもありました。そうしたときに人々はどんどんお金をあげるのです。こうして銀行にたまっていったお金は、1リラずつ2リラずつたまっていくどころの騒ぎではなかったのです」

■私の父が口座を開きました

F.Ş.さんは、メフメット・ケレシュさんの、2つある国営銀行の口座は彼の父が開設したものだと言う。「メフメットさんには昔、一つの口座しかありませんでした。そこでお金を預けていたわけですが、1985年だったか86年のある日、私の父と再びお金を預けに行ったんです。父が口座は誰のものか、と聞くと、銀行員は矛盾した答えをしたので、父は、メフメットさんと二つの国営銀行へ行き、口座を開設したのです」
「そのあとメフメットおじさんは、もらったお金が1万5千~2万リラ(75万~100万円)になったところで、私たちのところへ来て銀行の書類を手に、お金を預けに行っていました。手元に大金を残しておくようなことはしませんでしたね。多くて100リラ(5000円)くらいでした。信用のおける商店主にお金を預けていたのです。亡くなってから、最近ある両替所から8千リラ(約40万円)が見つかりました。かつてメフメットおじさんから5万リラ(約250万円)をだまし取っていた人もいたそうです。『一緒にこの仕事で儲けよう』とだまし、公証人のところに連れて行き、すべての所持品(全財産)を奪い取ろうとしていたところ、メフメットおじさんは最後の最後でこれに気づいたそうです。もちろん警察になど行くことはできませんでした。こういうことを私たちのところに来ては話してくれたのです」

■銀行の役員室で応対

F.Ş.さんによると、預金しに行くと銀行の役員はメフメットさんを役員室で応対したという。「メフメットおじさんは、銀行に行くときはきれいな服を着ていきました。自分が誰であるかバレないように、ヒゲを靴墨で黒く染めました。時には銀行側が特別な車を準備して、銀行まで送迎してくれることもありました。銀行では銀行役員室で応対を受けたといいます。もちろん銀行ではその口座のために、税金も払っていました。銀行はその税を軽減したものです。もしかしたらその辺の商店主たちよりたくさんの税を払っていました」

F.Ş.さんは、メフメット・ケレシュさんが記憶力に優れ、メフメトさんが原子爆弾について説明するソーシャルメディアの動画ではすらすらと語っていたと話す。
「原子爆弾について話していたんです。その間に誰かがほかのことを聞くと、初めに戻って再び説明し始めるのです。記憶力が本当に良かったです」
「ずっと路地にいました。昔はある店の倉庫で寝泊まりし、見張りをしていました。あるときは夜間、闇のバスチケットを売ったりしていました。夜はチケット売り場が閉まっていたからです。人々も結構買っていましたね。晩年はオトガル(バスターミナル)で寝泊まりしていました。噂によると、そこでもみんなにシミット(ドーナツ型の胡麻パン)を持ってきてもらっていた(恵んでもらっていた)そうです。日に50個とか60個くらいもらっていたとか。シミット屋と結託して、もらったシミットを全部食べずに、そのお金をもらっていました、メフメットおじさんは。」

■妻が原因で…

F.Ş.さんによると、妻との間に起きた出来事がきっかけで、メフメット・ケレシュ氏の人生は狂い始めたという。「奥さんや村の人たちとの仲がうまくいかなくなっていたようです。その後、人生がどうでもよくなり、村を捨てたといいます。コンヤの前にはイズミルやイスタンブルで住んだこともあるようです。20年前、親戚の一人が迎えにきましたが、ついては行きませんでした。私の父は、彼にきれいな服を着せて村に送りましたが、15日後には帰ってきてしまいました。自分を村に送り返した、と一年間、父にも腹を立ててしまいました。今日までというもの、彼の親戚が訪ねてきたのをみることはありませんでした。というのも、すべてを私たちに話していたからです。村では農業をやっていて、評価額の高い土地も持っていたそうです」

■「父が管財人です」

F.Ş.さんは、自身の父が管財人であると言う。「銀行での管財人は私の父ただ一人でした。このお金のことを知っている人はほかに誰もいませんでした。5年ほど前に殴られたため、警察には身分証の情報と指紋が残っていました。事故の日もその指紋をもとに本人確認をしたんです。私たちも行って、銀行の通帳を渡しました。私は彼が施しでこのお金を貯めたことを証言しました。というのもお金が国に没収される可能性があります。事実父も、将来なにかあった時でも、お金は国に没収されるようにといって、国営銀行に口座を開けさせたのです。メフメットおじさんは、まわりの人からもらったお金を全く使わない人でした」

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( 翻訳者:今城尚彦 )
( 記事ID:35469 )