黒海地方のアレヴィー派、CHPの「アレヴィー問題解決策」に反論
2014年11月21日付 Cumhuriyet 紙


黒海沿岸地域で暮らすチュルクメンのアレヴィー派住民やチェプニらは、「公正発展党(AKP)はヤヴズ・スルタン橋をギョヌル橋という名前にもせず、私たちの礼拝所を認めもせず、そして宗務庁を廃止せず、私たちのために何かしたなんて思ってほしくない」と話す。

2日間にわたりオルドゥ県の中心部や、オルドゥ県の背後にそびえる丘にあり、見渡す限りに広がるヘーゼルナッツ畑の真ん中にあるアレヴィー村や町中と、そしてファトゥサ県やファトゥサ県の背後に立つ丘のアレヴィー村とを4回も行き来している。アレヴィー協会の他にもデデたちや、私が考える「アレヴィー派とはこういう人だ」という定義に当てはまるアレヴィー派の人々と話をしている。どれほど会話したかは覚えていない。長い間話をした人も、慌ただしく話をした人も。

誰の話を紹介しようか。女性あるいは男性の、どの人の声を録音機器から一字一句正確に抜き出して伝えようか。いや、それは違う。だが私は頑として「おそらくこの人は異なることを言うだろう。おそらく前の人たちの考え方とは異なる見方で話すだろう」という目論見で話した。

骨折り損のくたびれ儲けだったようだ。空回りして、この歳で無駄に丘を登り、泥で埋もれた道を歩き回っただけだった。最初に話をしたアレヴィー協会のトゥンジャイ・オネンチ会長の話を書き留めて飛行機でイスタンブルに帰っていればよかった。せめて「これらはヤヴだ。アイドゥン・エンギンという記者がくる予定だから口裏を合わせておこう。と前から彼らは話し合いをしていたのではないか」と疑心暗鬼にもなった。しかし、ジュムフリイェト紙のチーフが私をオルドゥ県の沿岸部や丘に向かわせることは、私自身ですら出発前夜に知ったのだ。つまり、これらは以前から用意されていたことであるはずがない。

長く詳細な知識提供でお世話になったトゥンジャイ・オゼンチ氏がなんと言おうと、言葉足らずな者もいれば喋りすぎる者もいて、ある者は流暢に、またある者は途切れ途切れに言葉を繰り返すのであった。海外沿いのオルドゥ県を出て、曲がりくねった道を1250メートルにわたって登り辿り着いたギュルゲンテペ郡に住むルザ・デデから、長く仰々しい言葉で話す元教員のアレヴィー派住民、ファトゥサ県でスィヴァス出身の人々が暮らす町に住むカランフィルおばさんと90歳を越えたその母親、ファトゥサ県の背後にそびえる丘のマクストゥル村付近に暮らす「第2のベルガマ公害問題」とも言える金鉱反対の抵抗運動を行うアレヴィー派の若者たち、ユカルテペ村のシェネル・ヨルルマズさん、そしてカレディビ村のメティン・カラマンさんに至るまで…。皆、しかしそう誰もが私の質問に同じ答えを返した。私が質問せずとも、同じような考え方を口にしたのだ…。

結論を先に言おう。AKPのてっぺんにいるしたたかな人々は、近いうち、あるいは少し後にアレヴィー派にモーションをかけたり、選挙に向けて自身側へと引き寄せたりといった打算的な行動に出るだろうが、少なくともオルドゥ県では手の平返しにあうだろう。

私から言えることは…

■第1条

国家とその手綱を引くAKP政権は、ジェム・エヴィに礼拝所としての地位を認めていない間、口笛を吹いてごまかそうとすれば、アレヴィー派の抵抗を凌ぐことはできないだろう。

トゥンジャイ・オネンチ氏はこのように話す。

「スンナ派の礼拝所はモスク、キリスト教徒は教会、ユダヤ教徒はシナゴーグ、そして私たちにとってはそれがジェム・エヴィだ。私の礼拝所を認めないという人々は、私自身を認めないということになる。私を認めない人を私は…。」

「しかし、政府はモスクを『神殿』、あなたがたの(ジェム・エヴィ)を『礼拝所』と言うことになるでしょう。そしたらあなたはなんと言いますか?」という質問に、ファトゥサ県の中心部に住むガラス製品販売業のヒュセイン・カラルさんは無意識に「語源学の授業」を行った。

「神殿という単語は礼拝という単語から派生している。彼らはこうした言語学についてあたかも知らないような素振りだ。何が神殿で、何が礼拝所だというのだ。彼らは子どもたちを騙しているのだろうか?」

■第2条

政府側に引き寄せた一部のアレヴィー派の知ったかぶりたちに財団を設立させ、彼らの管轄下にいるデデたちを給料で繋ぎとめることでアレヴィー派の宗教的リーダーたちの感情に働きかけようと目論んでいるのならば、これは少なくとも黒海沿岸に住むアレヴィー派たちには全く効果がないだろう。

ギュルゲンテペ郡に住むアレヴィー派のデデ、ルザさんは笑う。

「そう、今私が言ったように、もし今私が政権側につき、ジェム儀礼に参加する信徒たちからお金を求め、葬儀で(イスラム式の)祈りを捧げ、さらにそれでお金を求めたりしたならば、私のデデとしての信用は失墜することにならないだろうか?イマームは給料をもらえばいいし、ミュエッズィン(礼拝の呼びかけを唱和する者)もそうだ。アレヴィー派のデデが3クルシュの給料で納得したならば、神もそれに納得するのだろうか?」

ファトゥサ県のスィヴァス出身の人々が住む町に暮らすカランフィルおばさんが、肩のほこりを払いながら「もらえばいいさ。イマームは給料をもらっているんだ。デデたちももらえばいい。」と言えば、90歳をとうに過ぎた彼女の母親は目を回した。

「何を言うんだい、この娘は。アレヴィー派のデデがお金をもらうというのかい。そんなことをしたらデデとしての役目は取り下げだよ。私たちのアレヴィー派としての在り方に、そんなことは存在しない。いや、あってはならないのだよ…。」

■第3条

「イスタンブルもオルドゥの山村も、なぜそれらを気にするのか」という目論見を心に抱き、イスタンブルのボスフォラス海峡に建設される第3の橋へヤヴズ・スルタン・セリムの名前をつけようと考え、そしてこの案に固執する熱狂的な宗派のAKPリーダーらに対し、ファトゥサ県カレディビ村のメティン・カラマンさんから言いたいことがある。

「エンギンさん(記者名)、4万人のアレヴィー派の命を奪ったその皇帝の名前は、彼らにとっては誇り高い名前かもしれないが、私たちにとっては血塗られた名前だ…。マラシュやスィヴァス、そしてチョルムでアレヴィー派を襲った殺戮者たちは、現代のヤヴズ・スルタンだと思わないかい?」

ファトゥサ県出身のメティン・カラマンさんの言いたいことを、オルドゥ県アレヴィー協会のトゥンジャイ・オゼンチ会長がより仕上げた形で説明する。

「橋の名称にヤヴズ・スルタン・セリムの名前を使うことに、私たちは驚きはしなかった。『彼らのすることはこんなものだ』とみな言ったものだ。まあ、シャー・イスマイル橋と名付けると言えば驚いたけどね。共和国の歴史上、一貫して国家は私たちを驚かせることはなかったが、傷つけたことは何度もあった。ヤヴズ・スルタン・セリムは、私たちにとってヤズィードだ。彼の名前を橋の名称にすれば、アレヴィー派はどう思う?イスタンブルにいることが重要ではない。今はテレビもあるし、そこで私たちは日常的に見たり聞いたりしている。これはアレヴィー派を傷つけることにならないだろうか?橋は2ヶ所をつなげて一つにするものだろう?離れた場所をつなぐ橋に、ギョヌル(トルコ語で心の意味)橋という名前は合わないものだろうか?」

■第4条

私は尋ねた。「アレヴィー派も宗務庁に代表を派遣させられることになればいい。そうすれば差別されているという人たちも口を閉ざさないだろうか?」

ファトゥサ県ユカルテペ村のシェネル・ヨルルマズさんの目が血走った。しかし、とても冷静に話してくれた。

「口を閉ざすことはないだろう。なぜなら、その方法は間違っているからだ。最も正しい方法は、宗務庁を廃止することだ。そう、宗務庁を廃止するべきだ。あなたが言うような(差別されていると訴える)アレヴィー派も、宗務庁の中に代表を送るということはありえない。宗務庁の管轄下に入れば、数えきれないほどの制限やアレヴィー派には都合の悪いルールなどが求められるだろう。アレヴィー派では、みな自身の信仰に基づいて礼拝を行う。もちろん、すべてのアレヴィー派は信仰のもとに一つだ。しかし、礼拝の方法には差異がある。トロスラルのタフタジュや、デルスィムのアレヴィー派、チョルムのアレヴィー派、そしてマラシュのアレヴィー派…本質は一つだが、礼拝にはそれぞれ異なる点がある。今、政府はこれらすべてを宗務庁に集め、一つの金型に当てはめようとしている。これは間違いだ。アレヴィー派は型にはまらないし、このような策略にも同意するはずがない。決してありえないのだ…。」

■第5条

「第5条、6条、7条、8条、9条…」と、もっと並べたいところだが、私が書けるスペースはとうに尽きてしまった。

黒海沿岸を父祖の地とし、ホラサンで生まれ、まず始めにエルズルムに移住した。彼らが移住した町にはホラサンという名前がつけられた。トゥルクメンと一部のチェプニは放浪を続け、ギュムシュハーネのクルトゥン町に住み着いた。そこからギレスンを通り、黒海沿岸全域へと広まった。ギュヴェンチ・アバダルの一族でありその血筋を引く黒海沿岸のアレヴィー派は、AKPが提示しようとしている「アレヴィー派融和政策」をどのように捉えるのか私は理解しようとした。そしてこの場で、私が聞いたことを皆さんと共有した。

私が思うに、彼らの答えはAKP所属政治家たちの眠気が消し飛ぶほど露骨なものだったはずだ。

■「正しい問いは、なぜAKPに投票しないのか?」

アナトリアの歴史を俯瞰すると、アレヴィー派は都市特有のチャンスをすぐに見出し、そのチャンスを掴んで我が物とした。この過程で階級社会の現実を学んだのだ。彼らの信仰の根底にある平等や自由、公正、闘争、残虐行為への反対、弱者支援といった国民を見渡しているかのような72項目もの特性が、左派や革命主義、社会主義といった他の概念にもそれらはあるが、表現されていること、そしてこれらは運命に抗うために必要であるとアレヴィー派は考え、理解し、そして内面化した。もちろん、この過程で労働者や失業者、職人そして公務員など様々な人々が、それぞれ宗教や言語を違えることなく一丸となり、共に搾取されつつも、共に闘うことで救われるであろうということも彼らは理解している。左派の考え方は、アレヴィー派の信仰が予見する世界を約束している。誰もが救われるはずだった…原点も本質もこれであった。それは今でも…。

しかしアレヴィー派の問題解決や要求の実現は、階級や搾取のない世界の創造を待てないほど喫緊だ。それゆえ、左派の国際的な要求やこれらの要求を叶えるための闘争を見過ごすことなく、彼ら自身の主観的な要求を第一に掲げて組織を形成したのだ。

今現在、政府は国内外の問題により手詰まり状態に陥り、出口へ続く道や息抜き、脱出、言ってしまえばこの膠着状態からの解放の必要性が噂されるなか、アレヴィー派融和政策は救命ブイにしがみついているような状態だ。とは言え、この結果は一定の努力ではあった。2009年に始められたアレヴィー派融和政策セミナーの結果、彼らが何を求めても、「類似している」ようで正反対となってしまった現実に抵抗することで、アレヴィー派はその毒入りシロップを二度と味わうことはなくなったのだ。

アフメト・ダヴトオール首相は先日、「アレヴィー派がCHPに投票したことに驚いている」と話した。大統領も首相時代に似たようなことを話している。トルコで投票制度が始められて以来、どの党首も有権者の宗派に基づく投票など求めることはなかった。

AKPの分裂的で破壊的とは別の態度と、信仰に基づいて票を分析することは、なによりもまず民主主義に対する裏切り行為だ。アレヴィー派は自身の知性や推測、そして自身の見解により誰に投票するべきかよくわかっている。なぜなら、彼らの選択は何よりもまず世俗主義や民主主義、平等、公正、ムスタファ・ケマル・アタテュルクや共和国の意義と結びついているからだ。「なぜCHPにアレヴィー派は投票するのか」という問いではなく、なぜ「AKPに投票しないのか」という問いのほうが正しい疑問だ。

ダヴトオール首相のこの言葉から、次のような意味を見出すことができる。アレヴィー派融和政策は今行き詰まっている。これは「われわれに投票すれば無料でハジュベクタシの霊廟に入ることができる」、「われわれに投票すればデデに給料を出そう」といった形の袖の下の駆け引きだ。しかし、これはアレヴィー派が違法に何かを得るわけでもなければ、違法に何かを渡す行為でもない。

■法律は改正され、アレヴィー派は権利を得るはずだった
(ミヤセ・イルクヌル)

民主党(DP)の後継政党と認識されるシュレイマン・デミレル氏率いる公正党(AP)が、1965年の選挙で52.87%という高い得票率で与党となったとき、これにヌルジュたちが貢献したことは紛れも無い事実だ。このためシュレイマン・デミレル氏は官僚組織において、特に宗務庁の中心と地方組織でヌルジュの幹部らを配置した。

それ以前にも国会の創設時やイノニュ政権時においても、政権側に引き寄せられたヌル教団の一員であるイブラヒム・エルマル氏が宗務庁長官に任命されている。イブラヒム・エルマル氏が就任後初めて行ったことは、ジェマレッティン・カプラン氏を副長官に任命したことだ。エルマル氏と幹部らは、行く先々で公にシャリーアのプロパガンダを行うことを躊躇しなかった。さらには、アレヴィー派に向けて「トルコのアレヴィー信仰は廃れた」と書かれた旗を掲げる一団となった。それ以前に、右派系新聞による中傷に対して抗議していたアレヴィー派は、もはや恐怖の壁を自身の手で崩し取り払っていた。エルマル氏のこうした無神経な発言に、アレヴィー派の反発はより厳しいものとなった。警告や会見、辞職を求める声が相次いだ。

1966年、ムーラ・オルタジャ事件が共和国の歴史で初の宗派をめぐる紛争として記録されることになる。スンナ派のクズルユルト村とアレヴィー派のフェヴズィイェ村との間における土地をめぐるいざこざが、ヌルジュによる扇動をうけて宗派間の紛争に発展した。オルタジャ事件から1年後にも、初のアレヴィー派系出版組織というアイデンティティを携えたエフリベイト・ヨル誌がエルビスタンで主催したイベントの夜に事件は起きた。アシュク・アフズニ・シェリフ氏やフェッラヒ・ルザ・アスランドアン氏、そしてクル・アフメト氏が舞台に上がった夜の部で、オザン(詩の詠み手)たちの命が狙われなんとか救出された。アレヴィー派の職場が襲撃され、1人が暴行を受けて死亡、3人が重傷、170人が負傷した。周辺の県から治安部隊の増援が要請され、事件は武力行使で鎮圧された。

■アレヴィー派政党の誕生

抑圧や中傷にさらされたアレヴィー派は、もはや声明を発表するだけでは満足せず、必要とあれば治安部隊に抵抗することもためらわなかった。1969年にエロル・トロイ氏が書き、ハルク・オユンジュラル劇団が上演した「ピール・スルタン」という劇は、まずエラズーで、その翌日にはトゥンジェリで県知事より何の根拠もなく禁止された。この恣意的な措置に反対し、同年8月21日にエラズーで、2日後の23日にはトゥンジェリでアレヴィー派は通りを占拠した。エラズーでは保守派と、トゥンジェリでは警察と衝突した。トゥンジェリの事件では警官の発砲により1人が死亡した。ハルク・オユンジュラル劇団をトゥンジェリに招待したトルコ労働者党(TİP)の立候補者であったケマル・ブルカイ氏と81人が逮捕された。

当時の宗務庁によるアレヴィー派に向けた発言や、オルタジャ事件により深部から揺さぶられ、政治的な領域には自分たちの庇護者はいないと確信したアレヴィー派は、結党に向けた第一歩を1966年に踏み出した。アンカラとイスタンブルでの一連の会議を経て、統一党(BD)が結党された。

BDの結党は、タイミングという観点からはあまりいい時代とは言えなかった。なぜなら、左派の風が吹き渡るその当時、アレヴィー派も優先事項を変更し、信仰に基づく要求ではなく階級的な要求を優先した。BPは最初の選挙で8人の国会議員を輩出した。右派と左派の分裂が深まった3月12日クーデターの後、「この体制は変わるべきだ」、「大地はそれを耕す人の、水はそれを利用する人のもの」といったスローガンで打って出たエジェヴィト氏率いるCHPとBPは高い得票率で連立政権を樹立した。アレヴィー派は、その後党名の頭に「トルコ」を加えたBPに好意的な視線を向けるも、票はCHPに入れていた。

1970年代を通してCHPだけでなく社会主義の左派政党にも傾倒したアレヴィー派は、信仰の自由という意味で具体的な要求はしていなかった。しかしながら、CHP党内には当時予備選挙で当選した多くのアレヴィー派国会議員が在籍していた。

アレヴィー派が独自の要求を打ち出せなかった根本的な原因は、どうあれ「体制は変わるはず」であり、社会を構成するすべての階層に彼ら自身から自由が与えられるはずであったからだ。その上、当時の政治的な風潮により、アレヴィー派も信仰に対する要求よりも階級闘争を前面に出していた。労働者や無産階級、土地を持たない村人、そして学生の基本的な権利を要求することが、もはや最優先事項であった。しかし、特に中高年のアレヴィー派の期待は異なるものであった。

■初のアレヴィー派大臣

アレヴィー派が、彼ら自身の権利を守るという名目で結党したトルコ統一党さえも差し控えて圧倒的に支持したCHPは、彼らの要求を公約に含めることができなくても、アレヴィー派を見てみぬ振りはできなかった。そのため、ビュレント・エジェヴィト氏は国民救済党(MSP)との連立政権において、初めてアレヴィー派を大臣に起用した。イズミル県出国会議員でありタフタジュのマフムト・チュルクメンオール氏は、関税・専売相として任命された。エジェヴィト氏は、1978年に樹立した政権において他にももう一人、スィヴァス県出国会議員のマフムト・オズデミル氏を地方行政相に起用した。

チュルクメンオール氏は、1961年の国会創設以来樹立された内閣における大臣の地方訪問の慣習を無視し、初めてハジュベクタシを訪問した大臣となった。1976年8月16日にネヴシェヒルで行われた会議に参加すると装い、「通り過ぎる際に立ち寄った」という口実でデニズ・バイカル元CHP副事務総長とエロル・チェヴィクチェ氏と共にハジュベクタシでの式典に参加したのであった。非公式ではあったが、大臣レベルで実現したこの訪問はアレヴィー派にとって画期的な出来事となった。デニズ・バイカル氏のハジュベクタシ訪問には、バイカル氏にとってもアレヴィー派にとっても特別な意味があった。なぜなら、バイカル氏がその当時トルコ大国民議会(TBMM)の壇上で行った演説の中で、右派政党を「あなたがたが行った残虐な行為は、カルバラーでヤズィードが聖フサインに行った残虐行為と同等だ」と批判したことはアレヴィー派に前向きな影響を及ぼし、さらにはバイカル氏がもともとデルスィムからアンタルヤに追放された家族の子どもであるという都市伝説が口伝えに広まっていたからだ。

この歴史的な出来事以来、もはや毎年ハジュベクタシの式典にはCHPの大臣らが訪問することが慣例となった。1978年にはCHP政権で文化相となったアフメト・タネル・クシュラル氏主導で、ハジュベクタシの式典を初めて文化省協賛で開催することになった。もはや大臣らは「通り過ぎる際に立ち寄っただけ」というにわかには信じがたい状況下ではなく、正式に式典に参加できるようになった。1978年の式典には、クシュラル文科相だけでなく、アレヴ・ジョシュクン観光相、ユクセル・チャクムル青年・スポーツ相も参加し、講演を行った。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:35926 )